第2話 指先の距離
図書室に翔が来るのは、いつも四時過ぎだ。
俺は時計を見なくても、わかるようになっていた。廊下の足音が遠ざいて、静けさが満ちてくる。
その頃に、翔は来る。
今日も、同じだった。
「先輩」
翔が、向かいの席に座る。
いつもの場所。
翔の表情が、少しだけ困ったみたいに見えた。
「どうした」
「えっと、消しゴム、忘れました」
翔は、カバンの中を覗き込んでいる。
探しているけれど、見つからない。
「貸そうか」
「……いいんですか」
「別に」
俺は、自分の消しゴムを手に取った。小さな白い四角。使い古されて、角が丸くなっている。
翔に差し出す。
翔が、手を伸ばした。
その瞬間、指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
翔の指先は、冷たかった。
冬の空気そのもののように感じた。
心臓が、大きく跳ねる。
翔は、少し驚いたみたいに目を見開いた。
それから、すぐに視線を逸らす。
「ありがとうございます」
小さく言って、翔は消しゴムを受け取った。
俺は、何も言えなかった。
ただ、自分の指先を見つめる。
翔は、ノートを開いた。何かを書き始める。
でも、その手が少しだけ震えているように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、俺の手も、
同じように震えていた。
窓の外で、風が木の枝を揺らしている。葉っぱが、一枚、また一枚と落ちていく。
秋が、終わろうとしている。
図書室の中は、静かだった。
ページをめくる音。
誰かの咳払い。
時計の秒針。
翔は、ノートに何かを書いている。
俺は、教科書を見ている。
いつもと同じ、放課後。
でも、違う。
指先に残った冷たさが、消えない。
―――
しばらくして、翔が顔を上げた。
「先輩」
「ん…」
「これ、返します」
翔が、消しゴムを差し出す。
また、手を伸ばす。
指先が、また触れた。
一瞬だけ。
今度は、温かかった。
翔の指先が、さっきより温かい。
そして、一瞬だと言うのに、
その感触は、まるで、
滑るような、高級な生地みたいで、
…確かに、柔らかかった。
翔が、小さく息を吸う音が聞こえた。
消しゴムを受け取る。翔が手を引く。
また、元の距離に戻る。
「ありがとうございました」
翔が、そう言った。
声が、少しだけ震えていたようだった。
「……別に」
俺も、声が出ない。
喉が、渇いている。
翔は、また視線を逸らした。
窓の外を見ている。
夕陽が、翔の横顔を照らしている。
頬が、少しだけ赤い。
気のせいかもしれない。
でも、俺の頬も、熱い。
―――
その日、翔はいつもより早く帰った。
「先輩、また明日」
そう言って、立ち上がる。
いつもより、少しだけ慌てているみたいに。
「ああ」
翔が、図書室を出ていく。
俺は、自分の手のひらを見つめた。
まだ、感触が残っている。翔の指先の冷たさと、温かさ。
消しゴムを、手に取る。
翔が使っていた消しゴム。
何も変わっていない、ただの消しゴム。
俺は、それをペンケースにしまった。
いつもより、丁寧に。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。
空が、オレンジから紫に変わっていく。
胸の奥が、
さっきより、大きく、ざわざわとしている。
―――
家までの帰り道、俺はずっと考えていた。
翔の指先のこと。
あの冷たさと、温かさ。
ほんの一瞬の接触。
あの感触。
それが頭から離れない。
翔は、どう思っているのだろう。
同じように、意識しているのだろうか。
それとも、何も感じていないのだろうか。
わからない。
翔の考えていることは、いつもわからない。
ただ、あの時の翔の表情。
少しだけ驚いて、視線を逸らした。
あれは、何だったのだろう。
頬を撫でる風が、冷たい。
翔の、華奢な手首から指先までの形が、
脳裏に浮かび上がる。
そして、感触も、ぼんやりと。
―――
次の日、翔はいつもの時間に来た。
「蒼汰先輩」
「ああ」
翔が、向かいの席に座る。いつもと同じ。
翔の視線が、俺の手元に落ちる。一瞬だけ。
それから、すぐに逸らす。
俺も、翔の手を見てしまう。
机の上に置かれた、華奢な手。
あの感触。
「……何」
「いえ、別に」
「別にって」
「先輩こそ、何見てるんですか」
「見てない」
「見てましたよ」
翔が、笑う。
俺は、視線を逸らした。
教科書を開く。文字が、ぼやけて見える。
翔も、何かを取り出す。今日は、ちゃんと消しゴムを持ってきたみたいだ。
いつもの放課後。
でも、
指先の距離が、変わった。
触れたことで、近くなったのか。
それとも、遠くなったのか。
わからない。
窓の外で、風が吹いている。
カーテンが、揺れる。
光が、机の上で揺れる。
翔の手の上に、光が落ちる。
その指先を、俺はまた、見てしまう。
翔も、俺の手を見ている。
昨日ここで、指先が、二回、
触れ合ったこと、
お互い気づいている。
でも、何も言わない。
それが、俺たちだった。
(第二話 了)
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