十一月の残響 -Ripple Reaction-
@mmCa
第1話 夕暮れの席
放課後の図書室は、いつも同じ匂いがする。
古い紙と、窓から差し込む光の匂い。
十一月に入って、日が落ちるのが早くなった。
午後四時を過ぎれば、もう夕暮れだ。
世界の輪郭が、ぼやけていく。
俺は窓際の席に座って、教科書を開く。
毎日、同じ場所。同じ時間。
それは儀式みたいに、繰り返されていた。
「蒼汰先輩」
振り向く前に、わかった。
神林翔が、向かいの席に座る。
制服のブレザーを脱いで背もたれにかけて、白いワイシャツの袖を肘まで捲る。
華奢な手首が見える。
まるで、そこだけ透けているみたいに。
「今日も勉強ですか」
「まあ」
教科書は開いているけれど、
文字は頭に入ってこない。
ページの上を、視線が滑っていくだけ。
翔が来るようになってから、ずっとそうだ。
いつからだろう。
翔がここに来るようになったのは。
気づけば、毎日だった。
気づけば、待っていた。
今日の翔は、
カバンから何も取り出さずに、
ただ、座っている。
俺を見ている。
それが目的だ、みたいに。
「……何だよ」
「別に」
「別にって」
「先輩の顔…、見てただけです」
心臓が、音を立てる。
翔の目は、まっすぐだ。
嘘をつく目じゃない。
ただ、事実を言っているだけの目。
水面みたいに、透明で。
「変なこと言うなよ」
「変じゃないですよ。先輩の顔、好きなんで」
呼吸が、どこかに消える。
翔は笑わずに、ただ、そこにいる。
当たり前のことを言ったみたいに。まるで、空が青いとか、風が吹いているとか、そういうことを言うみたいに。
「……お前、そういうこと、簡単に言うなって」
「どうしてですか」
答えられない。
言葉が、喉の奥で固まる。
窓の外で、部活動の声が響く。
グラウンドを走る足音。
笑い声。
ボールを蹴る音。
世界は、まだ明るい時間の中で動いている。
でも、ここは違う。翔と俺の間だけ、音がない。水の中にでもいるかのようだ。
「先輩、変なの」
「変なのはお前だろ」
「そうですか?」
翔が、笑った。少しだけ。
夕陽が、翔の横顔を照らしている。
窓のカーテンが、風に揺れる。
オレンジ色の光が、机の上に落ちて、翔の指先まで染めている。
翔の指先が、机の端を軽く叩く。
リズムもなく、ただ、そこに触れているだけ。
まるで、何かを確かめているみたいに。
「先輩って、いつもここにいますよね…」
「まあ、な」
「図書委員なんですか」
「ああ、いや…違う」
「じゃあ、どうして」
「別に。落ち着くから」
翔が、少し首を傾げる。その仕草が、鳥みたいに軽い。
「落ち着く、か…」
「お前は、どうして来るんだよ」
翔は、少し考えるような顔をした。
それから、小さく笑う。
まるで、秘密を話すみたいに。
「先輩がいるからです」
また、心臓が跳ねる。
胸の奥で、何かが波打つ。
翔は、そういうことを平気で言う。
躊躇がない。恥ずかしさも、遠慮も、何もない。
ただ、事実を並べるみたいに。
「……お前、ほんとに」
言葉が、続かない。
どう返せばいいのか、わからない。
翔は、ただ俺を見ている。
その目が、静かすぎて。
図書室の時計が、秒針を刻んでいる。
誰かがページをめくる音。椅子を引く音。
世界は、ちゃんと動いている。
でも、翔と俺の間だけ、
時間が止まっているみたいだ。
まるで、ここだけ別の場所みたいに。
「先輩」
「ん」
「明日も、来ていいですか」
翔の声は、静かだ。
「……好きにしろよ」
それしか、言えなかった。
翔が、また笑った。
今度は、少しだけ安心したみたいに、嬉しそうに。
光が、翔の目に滲む。
「じゃあ、来ます…」
そう言って、翔は立ち上がった。
ブレザーを羽織って、カバンを肩にかける。
「先輩、また明日」
小さく手を振って、翔は図書室を出ていく。
俺は、何も返せなかった。
ただ、その背中を見送ることしかできなくて。
その背中が、ドアの向こうに消えていく。
―――
昇降口を出ると、空が赤かった。
家までの帰り道、風が冷たい。
冬が、すぐそこまで来ている。
胸の奥が、何かが詰まっているみたいに苦しい。
翔の言葉が、ずっと耳に残っている。
「先輩の顔、好きなんで」
あんなふうに、簡単に。
何の躊躇もなく。まるで、それが真実の全部みたいな顔で。
翔は、わかっているのだろうか。
自分が、どれだけ無防備で
どれだけ、危ういか。
それとも、わかっていないから、
ああやって、あんなこと言えるのだろうか。
ポケットに手を突っ込んで、俺は歩く。
街灯が、ひとつ、また、ひとつと灯っていく。
夜が、近づいている。
―――
翌日も、翔は来た。
その次の日も。
図書室の窓から見える空が、少しずつ色を変えていく。オレンジから紫へ。紫から藍色へ。
翔は、いつも向かいの席に座る。
何も言わない日もある。
ずっと喋っている日もある。
俺は、ページをめくる。翔は、俺を見ている。
それだけの、放課後。
でも、胸の奥が、いつもざわざわする。
翔が笑うたびに、
翔が俺の名前を呼ぶたびに。
何かが、少しずつ、変わっていくような気がする。
―――
ある日、翔が言った。
「先輩の名前、蒼汰っていうんですね」
「……知らなかったのかよ」
「昨日、クラスの人に聞きました」
「なんで今さら」
「なんとなく、聞けなくて」
翔は、少し照れたみたいに笑った。頬に、少しだけ赤みが差す。
「蒼汰先輩」
名前を呼ばれる。
それだけで、そっと脇腹を触れられたみたいに、くすぐったく感じた。
「……なんだよ」
「なんでもないです」
翔は、また笑った。
窓の外で、誰かが笑っている。
風が、カーテンを揺らす。
光が、揺れる。
図書室の時計が、秒針を刻んでいる。
俺と翔の間の、静かな時間。
それが、毎日、繰り返される。
まるで、それが答えみたいに。
(第一話 了)
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