町は、穏やかに

円衣めがね

町は、穏やかに

それまで、その町で大きな事故が起きたことはなかった。大きな事件も、小さな事故すらも皆無だった。町は平和で、穏やかに日々を過ごしていた。朝の通勤時間に信号が滞ることは少なく、雨が降っても道は荒れない。夜中に騒ぐ若者もほとんどいなかった。古い建物は倒れる前に取り壊されるし、壊れそうなものは壊れる前に誰かが気づく。誰かが眠れなかった夜も、翌朝には理由を忘れている。口論が起きても長引くことはない。この町では物事が大事になる前に自然と収まってしまう。


住人は「ここは安心できる場所だ」と無意識に信じて暮らしていた。


その日も、特別なことは起きないはずだった。少なくとも、そう思える程度には、この町の日常は穏やかだった。


町のはずれに小さなパン屋があった。派手さはなかったが、朝の早さだけはこの町で一番だった。夜が明けきる前に灯りが入り、焼き上がりの香りが通りに広がる。その香りで目を覚ます住人も少なくなかった。


朝、いつもの香りがしなかった。


「寝坊だろうか」


シャッターの閉じた店先を見て誰かが言った。パン屋の主人は高齢だったが、開店を遅らせたことは一度もなかった。


八時を過ぎても、店は静かなままだった。


常連の一人が、ガラス越しに中をのぞいた。照明は消えている。焼き窯も動いていない。カウンターの奥に人影は見えなかった。臨時休業の張り紙もない。ただ、ドアに鍵が掛かっていないことだけが、いつもと違っていた。気になって裏口に回った人が、すぐに戻ってきた。誰かが携帯電話を取り出し通話を始める。その場にいた全員が「信じられない」と声を落とした。


主人は、作業場で倒れていた。床に散らばった粉は、複数の足跡で乱れていたが、店を荒らした様子はなかった。伸ばしかけの生地が、そのまま放置されている。朝を迎えるはずだった準備だけが途中で止まっていた。


警察が来るころには、通りは多くの人で埋め尽くされていた。焼き立てのパンの香りのしない朝に慣れないまま、人々は立ち止まってあれこれと噂話をしていった。シャッターの閉まったパン屋は、いつもより薄ぼけて見えた。


この町で、いつもどおり始まるはずだった朝が、初めて始まらなかった。


パン屋の事件から一週間後、町は見た目だけなら落ち着いてきていた。捜査は継続していたが規制線は外され、表面上は静けさを取り戻しつつある。パン屋の前を避けるように歩く者はいたが、それも次第に減っていった。


その日、町の反対側で別の小さな出来事が起きた。


古着屋の店主が店を開けられなかった。理由は単純だった。前夜に脚立から落ち、足を捻ったのだという。大事には至らず救急車も呼ばなかった。ただ、歩くのが少し不自由になった。それだけの話だった。代わりに店主の甥が昼前に店を開けた。だが、その日は来客がほとんどなかった。天気は悪くなく特別な理由も見当たらない。ただ、人の流れが自然に店の前を外れていくようだった。甥は「こんな日もあるか」と早めに店を閉めた。


数日後、駅前の駐輪場で別の不具合が起きた。駐輪の鍵が開かない自転車が三台続けて見つかった。持ち主はそれぞれ違い、自転車の種類も三者三様だった。係員が対応するころには人だかりができていたが、誰も強く不満を言わなかった。仕方がない、という空気だけが残った。


翌日、学習塾で停電があった。授業は途中で中断され、子どもたちは早めに帰された。原因は近くの工事だと説明されたが、それらしい工事は見当たらなかった。学習塾の関係者も迎えに来た保護者も首をかしげたが、どこかに問い合わせるほどのことでもないので、人々は帰宅して早めの家族団らんを過ごした。


それらの出来事は互いに関係がなかった。

少なくとも、人々はそう受け取っていた。


ただ、その小さな不運は全て同じ人物の周囲で起きていた。


古着屋の店主は足の痛みが引かないまま、通院が増えた。そのため甥は店を手伝う時間が長くなり、本来の仕事に支障が出てきた。駐輪場の鍵が開かなかった三人のうち一人は、その甥だった。甥は停電をした塾の講師を本業にしていた。だが、どれもよくある不運だった。甥は「運が悪いことが続く」と溜息をついたが、それくらいのものだった。


それでも、その一人の小さな不運から少しずつ、少しずつ流れが噛み合わなくなっていった。予定していたことが予定どおりに進まない。真っ直ぐ進むはずの事柄が自然に横道に逸れていく。


古着屋の店主が姿を見せなくなったのは、雨の翌日だった。


店は昼を過ぎても開かなかった。臨時休業の張り紙が出ているわけでもなく、シャッターが少し歪んだまま下りている。甥も姿を見せなかったのだが「無理をしていたから休んでいるのだろう」と近所の誰かが言った。「どこかで悪化して入院でもしてるかもしれない」と誰も強く心配しなかった。パン屋の件があってから、この町では深入りしない態度が自然に身についていた。


それから三日経っても、店は開かなかった。


郵便受けに折り畳まれたままの郵便物が溜まっていく。夜になっても部屋の灯りはつかない。洗濯物が取り込まれることもなかった。だが、異臭がするわけでもないので、通報する決定的な理由がないまま時間だけが過ぎた。


四日目の朝、川沿いで人が見つかった。


身元の確認には時間がかかったが、やがて古着屋の店主だと分かった。事件性があるかどうかは、すぐには断定できないと警察は説明した。足を痛めていたこと、夜間に独りで外出していた可能性、雨で足元が悪かったことに加え、川が増水していたこと。いくつかの要素が並べられ、どれも否定も肯定もされなかった。


甥はあれこれと警察に事情を聞かれてうんざりしているらしいと噂話が広がった。


古着屋の前をゆく人は自然とゆっくり様子を伺いながら歩くようになった。その結果、通りの流れが詰まり、朝の小さな混雑が生まれた。町が少し窮屈になったという囁きが静かに広がりだす。


甥は、町を離れた。


理由を詳しく話すことはなく、荷物をまとめて、短い挨拶だけを残した。引き止める者はいなかった。古着屋の主人の一件で色々と詮索されて居づらくなったのだろうと誰かが噂した。それから数日もすると人々はこの事件のことからも少しずつ関心が薄れていった。


そんな日々のなか、今度は町役場で長く働いていた男が行方知れずになった。住人の多くは名前も知らない。窓口で書類を受け取り、確認して黙って返す。昼休みの時間が正確で、定時になると席を立つ。そういう人だった。目立つことはなく、問題を起こしたこともない。


そんな男が、ある朝、出勤しなかった。


無断欠勤は初めてだった。上司は体調不良だろうと考え、昼過ぎに連絡を入れたが、電話はつながらなかった。緊急性はない。翌日になれば分かるだろう。そう判断され、その日は代わりの職員で対応が続けられた。


結果として、窓口はいつもより早く進んだ。


男が担当していた業務は確認に時間がかかることで知られていた。「慎重すぎる」と言われることもあった。それがなくなり、待ち時間が減った。


翌日も、その翌日も男は現れなかった。


数日して役場から自宅を訪ねた職員が玄関先で立ち止まった。郵便受けから新聞が溢れかえっている。鍵は掛かっていた。呼び鈴を押しても反応はない。


「面倒なことになったなぁ」

役場の職員は溜息をつきながら警察に通報した。


男は家の中で全裸の状態で見つかった。事件性があるかどうかは、やはりすぐには分からなかった。持病の可能性、入浴中の事故、いくつかの仮説が並べられたが、どれも決め手に欠けていた。


それでも役場の窓口は混乱なく回っている。書類の処理は早くなり苦情は減った。男がいなくなったことを惜しむ声は、ほとんど聞かれなかった。業務は業務として続いていた。


数日後、別の部署から応援が入り欠員は埋まった。町は、欠けた部分を自然に補った。


パン屋の香りは広がらない。

古着屋のシャッターも上がらない。

それでも、日常は流れている。


「大事にならなくてよかった」


誰かのその言葉は否定されなかった。何が「大事」なのか、誰も定義しなかったからだ。町では目に見えて問題が減った。予定外の遅れがなくなり、揉め事は小さなうちに収まる。その理由を探す者はいない。ただ、落ち着いてきた、という感覚だけが共有された。


しかし、これらを境に町の空気が少しずつ変わっていった。


最初に変わったのは人々の視線だった。通りですれ違うとき相手の顔を見る時間が長くなった。挨拶は減り、代わりに一瞬の沈黙が挟まる。誰も問いたださないが、誰もが何かを推し量っているようだった。


人々は問題点を探し始めた。


夜に一人で歩いている者。

決まった時間に姿を見せない者。

町の行事に顔を出さない者。


それらは、以前なら何の問題にもならなかった。だが今は「理由が分からない」というだけで距離を取る理由になった。


噂は名指しを避けて広がった。


「最近、あの辺りは静かすぎる」

「前から、あの人は浮いていた」

「だから、何かあっても不思議じゃない」


誰も多くは語らない。だが「関わらないほうがいい人」という分類が、いつの間にか共有されていた。


町内会の集まりで席が一つ空くようになった。全員が出席して立ったままの人もいるのに、誰もそこに座ろうとしない。回覧板はある家を境に少し遠回りをして渡されるようになった。誰かとのゴミ出しの時間が重ならないよう、暗黙のうちに調整されだした。


避けられている側は理由が分からない。


声をかけても、返事が遅れる。

話しかけようとすると、用事を思い出される。

目が合うと、先に逸らされる。


それでも抗議するほどのことではなかった。はっきりと拒絶されているわけではない。ただ、町の流れから少し外されているだけだった。人々の口論は減り、通報も減った。夜は静かになり、人の集まりは縮小された。問題が起きそうな芽は、芽のうちに距離を取られていった。


誰かが言った。

「用心するに越したことはない」

その言葉は、何度も町中で繰り返された。


誰に対して用心するのかは曖昧なままだったが、それで十分だった。


町は、以前よりも整って見えた。


人は少しずつ減っている。だが、騒ぎは減り、予定は守られ、事故は起きない。不在は「空白」ではなく「余白」として受け取られていた。


そしてこの段階で人々はまだ気づいていなかった。


「怪しい人」を避けているつもりで、実際には「町の側に残される人間の条件」が狭められていることに。


+


この町では異常は放置されない。


起きた出来事は必ずどこかに痕跡を残す。音、時間のずれ、人の流れの乱れ。どれもが原因につながるはずだった。


最初の事件も、そうだった。


朝が始まらなかった。香りが広がるはずの時間に何もなかった。笑顔が集まるはずの場所に、ざわめきが集まった。だが、そこまでは事を把握できていた。問題は、その先だった。


誰がパン屋の主人を。それが結びつかない。


人の動きは見ている。夜中に歩いていた者。公園に集まっていた若者たち。灯りが消える時間が遅かった家。だが、それらは単独では意味を持たなかった。疑わしい動きは、常に複数あった。どれか一つを選んで直しても無意味だった。時間が経つにつれて状況は悪化した。


二件目、三件目。いずれも、説明のつかない終わり方をしている。偶然として処理するには時期や範囲が狭く、関連づけるには共通点が足りない。


町は、焦り始めていた。


異常がある以上、原因があるはずだった。そして原因があるなら特定できるはずだった。だが、どれだけ照らしてもその原因が見えない。


避けられている人間がいる。

いなくなった人間もいる。

その結果、表面上、町の滞りは減っている。


それが、町を苛立たせた。

「秩序は回復している。しかし、原因は残ったままだ」


「このままでは、また起きる」

それは、町にとって最も不快なことだった。


「ならば、要素を絞るしかない」


不確かな要素を減らす。

判断を遅らせる存在を除く。

動きが読めないものを外に出す。


それは罰ではなく対処だった。町は間違いを正そうとしていた。この一連の原因を見つけ出し、取り除くために。


だが、原因はどこにも見当たらなかった。そこに残ったのは「偶然」と「不安」と住人たちの「距離」だけだった。それでも町は手を止めなかった。原因が見つからない限り、試行をやめる理由がなかったからだ。


判断は静かに切り替えられた。


これまで町は「出来事」を追っていた。起きたことの痕跡を集め、原因にたどり着こうとしていた。だが、それでは間に合わないことが分かってきた。異常は広がり、人間の反応が拡大していく。


ならば順序を変えるしかない。


原因を探すのではなく、結果を予測する。

異常のあとに何が残り、何が消えるか。


そこに判断の基準を置く。


最初に対象になったのは、すでに避けられていた人間だった。


夜に一人で歩いている者。

決まった時間に姿を見せない者。

町の行事に顔を出さない者。


それらは出来事の原因ではない。だが、異常が起きたあとも残り続ける「揺らぎ」だった。町は直接手を出すことはしない。人間の行動を少しだけ変える。


信号の変わるタイミングを、わずかにずらす。

街灯の点灯を、一拍遅らせる。

人の流れが少ない方向へ、自然に導く。


結果として孤立は深まる。誰にも見られない時間が増える。助けを呼ぶ機会は減る。


それらは事故と区別がつかなかった。


川下で見つかった者がいた。

踏切の手前で倒れていた者もいた。

転落、心臓発作、などなど。


どれも人間の側で説明がついた。そしてそのたびに、町は確認した。


「騒ぎは広がったか」

「人の流れは乱れたか」

「遅れは発生したか」


答えは常に「否」だった。


調子はよくなっていた。混雑は減り、予定は守られ、夜は静かだった。避けられていた人間が消えると、その周囲の不具合も消えた。


町は学習した。


「原因は特定できなくても、異常の発生確率は下げられる」


原因が見つからないことへの苛立ちは次第に薄れていった。代わりに、確信が積み上がっていく。


「この方法なら、再発しない」

少なくとも町の観測範囲では。


人間の数は少しずつ減った。だが、減り方は不規則で目立たない。一人ひとりは、いなくなっても町全体に影響を与えない。


それが最も重要だった。


町にとって、人間は最優先事項ではない。人間は流れであり、密度であり、不確定要素だった。


ある時点を境に、町は原因という概念を使わなくなった。「必要なのは原因ではない。結果が安定しているかどうか」それだけだった。


異常は起きなくなった。

少なくとも町が異常と定義するものは。


夜は静かで、朝は滞らない。

誰も遅れず、誰も騒がない。


町は、ようやく作業を終えたと判断した。


朝に人の流れを調整する必要がない。信号は一定の周期で変わり、横断歩道は誰にも踏まれない。店の開店時間を気にする必要もなく、パンの香りが広がるかどうかを確認する意味もなくなった。


予定外の動きは、もう起きない。


夜に歩く者はいない。

集まる声も、遅れる足音もない。

確認すべき揺らぎは消え、全ては整っている。


町は一つずつ点検した。


道路に破損はない。

建物は安定している。

電力も水も、無駄なく循環している。


人間に関する項目だけが更新されなくなっていたが、それは問題ではなかった。対象が存在しない以上、変化がないのは自然なことだった。


異常は見当たらない。


騒ぎは起きない。

衝突はない。

不意の行動も、予測不能な事件も事故もない。


かつて問題とされていた要素は全て消えていた。原因と呼ばれていたものも、結局は見つからなかったが、それはもう重要ではなかった。原因を特定しなくても、結果は安定している。


町は結論を出す。


「これ以上、調整する必要はない」

「監視を強める理由もない」


町は、ゆっくりと意識を閉じる準備に入る。次に目を開ける必要があるのは何かが乱れたときだけだ。


だが、その兆候はない。


風は規則正しく吹き、

雨は排水溝を満たさずに流れ、

朝は、滞りなく訪れる。


町は静かな確信を持った。


「これでまた、安心して過ごせる」

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