第12話 5年越しの返却
古本の匂いというのは、どこか死の匂いに似ている。
乾燥した紙とインク、そして閉じ込められた時間の澱(おり)。
センターに持ち込まれたその本からは、それに加えて、微かな「土」の香りがした。
「鏡くん、これ。図書館の本みたいだけど、バーコードが読み取れないって」
塔子が持ってきたのは、深緑色のハードカバーの本だった。
背表紙の金文字は剥げかけている。『臨床毒性学概論』。
薬学部の専門書だ。
「図書館の返却ポストに入ってたらしいんだけど、システム上で貸出記録がヒットしないんだって。司書さんが困ってこっちに回してきたの」
「……ふむ。幽霊図書か」
僕は本を受け取り、表紙を開いた。
見返し部分に貼られた貸出カード用ポケット。そこには、懐かしい紙のカードが刺さったままだった。
今は全てデジタル管理されているが、数年前まではこのアナログな方式だったはずだ。
カードを引き抜く。
最後に押された日付印を見る。
『2019.10.31』。
「うわっ、古っ! えっと、五年前!?」
塔子が覗き込んで声を上げる。
「五年も借りパクしてたってこと? 延滞料いくらになるんだろ……怖い怖い」
「……五年、か」
僕は指先で日付をなぞる。
五年前。僕が入学するよりも前だ。
最後に借りた学生の名前は『S.Numata』とある。
奇妙なのは、本の状態だ。
五年間、学生の部屋の積読(つんどく)タワーに埋もれていたのなら、背表紙が日焼けしたり、埃を被ったりしているはずだ。
だが、この本は妙に「しっとり」としていた。
紙が湿気を含んで重くなり、ページ同士が張り付いている。
そして、鼻を近づけると漂う、雨上がりの森のような土の匂い。
「ねえ、これ『タイムカプセル』じゃない?」
塔子がロマンチックな説を唱える。
「卒業する時に埋めて、五年後の自分へのメッセージ……みたいな! 素敵!」
「教科書を埋める奴がいるか。資源の無駄だ」
僕はページを慎重にめくった。
張り付いたページが、バリバリと音を立てて剥がれる。
あるページに、赤線が引かれていた。
『トリカブト(アコニチン)の致死量と遅効性について』。
さらにページをめくると、栞(しおり)代わりのものが挟まっていた。
それは、押し花……ではない。
四つ葉のクローバーでもない。
乾燥して茶色くなった、植物の「根」だった。
「うわ、何これ。根っこ? 漢方薬?」
塔子が顔をしかめる。
「……トリカブトの塊根(かいこん)だな」
僕は即答した。
「毒性が最も強い部分だ。……まさか、現物を挟んで保存していたとはな」
五年前の十月三十一日。
この本を借りた学生は、トリカブトの根を採取し、この本に挟み――そして、どうした?
本は土の匂いがする。
タイムカプセルのように箱に入れて埋めたのではない。
「本ごと」土の中に埋められていたのだ。
なぜ今になって出てきた?
最近、キャンパス内で工事があったか?
いや、薬学部の裏庭で、花壇の植え替え作業が行われていたはずだ。
そこから掘り出されたのか?
それとも、埋めた本人が「証拠」を回収し、処分に困って返却ポストに投げ込んだのか?
「ねえ鏡くん、この『ヌマタ』さんって人、探してみる? もう卒業してるかもしれないけど」
「……いや、いい」
僕は本を閉じた。
「図書館のデータベースにないということは、この本は『除籍処分』扱いになっているはずだ。今更返しても、図書館側も迷惑だろう」
「えー? じゃあどうするの?」
「僕が個人的に預かる。……学術的に興味深い資料だ」
僕は嘘をついた。
この本を返してはいけない。
もし司書がこの「根」に気づき、五年前の学生名簿を調べたら?
もし、その学生が「行方不明者」リストに入っていたら?
五年前、毒草について調べた学生が、毒草と共に土に埋まった。
そして今、本だけが帰ってきた。
持ち主は、まだ土の中にいるかもしれないのに。
「勉強熱心だねぇ、鏡くんは」
塔子は感心している。
「まあな。知識は腐らないが、紙は腐る。早めに保護しないとな」
僕はその毒々しい本を、ジップロックに入れて密封した。
土の匂いを閉じ込めるように。
カウンターの隅の激甘コーヒー。
あれもまた、黒い液体(ブラック)に白い粉(砂糖)とミルクを混ぜて、本来の苦味を隠したものだ。
毒も薬も、混ぜてしまえばわからなくなる。
「……おかえり。遅かったな」
僕は誰にともなく呟き、その本を棚の最下段、誰の目にも触れない場所へと隠した。
遺失物管理センターの鏡くんは、決して間違わない 亜久 @AQRIL
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