第10話 お弁当箱の行方
正午を過ぎると、キャンパスは様々な匂いで満たされる。
学食のカレー、移動販売のクレープ、そして芝生で広げられるお弁当の匂い。
平和な昼下がりの風景だ。
だが、遺失物管理センターに届けられたその弁当箱からは、少し違う匂いが漂っていた。
「うわぁ、これ手作りだ! すごーい!」
塔子が歓声を上げたのは、ピンク色の風呂敷に包まれた、二段重ねの弁当箱だった。
届け出によれば、朝の講義が行われた教室の机の中に、ポツンと置き去りにされていたらしい。
「まだ温かいよ……いや、常温かな? でも、すごく重い!」
塔子は宝箱を開けるように、慎重に蓋を開いた。
中身は、芸術的だった。
タコさんウインナー、ハート型の卵焼き、彩り豊かな野菜の肉巻き。
ご飯の上には、海苔で『Fight!』という文字まで描かれている。
完璧な「愛妻弁当(あるいは彼女弁当)」だ。
ただし――箸一膳分たりとも、手がつけられていなかった。
「ええーっ! 全然食べてないじゃん! もったいない!」
塔子が悲鳴を上げる。
「なんで!? 喧嘩しちゃったのかな? それとも、食べる暇がないくらい忙しかったとか?」
「……あるいは、食べる『資格』がないと思ったか、だな」
僕は冷静に観察する。
箸箱の中の箸も新品同様にピカピカだ。
置き去りにされた状況から見て、持ち主はこの弁当箱を意図的に「置いていった」可能性が高い。
「ねえ鏡くん、これどうする? 冷蔵庫に入れておく?」
塔子が提案する。
「夕方に取りに来るかもしれないし」
「駄目だ。衛生管理規定・第4条。『腐敗の恐れがある食品類は、即時処分とする』」
僕はゴム手袋を装着した。
「作られてから数時間は経過している。保存料が入っていない手作り弁当は、菌の温床だ。万が一、持ち主が食べて食中毒でも起こしたら、管理していた僕らの責任になる」
「うぅ……。正論だけどさぁ……。作ってくれた人の気持ちを考えると……」
塔子は泣きそうな顔で見ている。
僕は無慈悲にゴミ袋を広げた。
「気持ちで腹は壊さないが、菌では壊す。それが現実だ」
僕は躊躇なく、彩り豊かなおかずをゴミ袋へと放り込んだ。
ボトッ、グチャッ。
愛の結晶が、ただの生ゴミへと変わる音。
下の段。ご飯の層だ。
『Fight!』の海苔文字もろとも、僕は逆さまにして叩き落とす。
その時。
ご飯の底から、ラップに包まれた小さな紙片が落ちてきた。
「あ、何か出てきた!」
塔子が気づく。
「手紙かな? 『大好きだよ』とか?」
僕は素早くそれを拾い上げた。
油と湿気で少し透けているが、文字ははっきりと読めた。
可愛らしい丸文字で、こう書かれている。
『最後の晩餐だね。これでお別れ。あっちで待ってる』
……なるほど。
『Fight!』の意味が変わってくるな。
これは「生きるための応援」じゃない。「死ぬ勇気」を奮い立たせるためのメッセージか。
あるいは、この弁当自体に、致死性の何かが混入されている可能性も――。
「なんて書いてあったの? 見せて見せて!」
塔子が身を乗り出してくる。
僕は表情1つ変えず、その紙片を握りつぶした。
「……『おかずの下に梅干し隠しておいたよ』だとさ」
「なーんだ、サプライズ? 可愛いなぁ」
僕は握りつぶした紙片を、そのまま電動シュレッダーの投入口へと差し込んだ。
ガガガガガ……!
紙片は瞬く間に裁断され、意味のない紙屑へと変わった。
「汚れていたからな。処分した」
「もう、鏡くんてば潔癖症なんだから」
空っぽになった弁当箱を、僕は洗剤で丁寧に洗浄した。
キュッキュッとプラスチックが鳴る。
中身がなければ、これはただの工業製品だ。何の罪もない。
持ち主――おそらく男子学生だろう――は、この弁当を食べる勇気がなかったのか。
それとも、これを食べるという「儀式」を拒否して、一人で逃げ出したのか。
もし後者なら、彼はまだ生きているかもしれない。
だが、もし「あっちで待ってる」という送り主の元へ向かったのだとしたら。
この弁当箱が引き取られることは、二度とない。
「……ごちそうさまでした、と言えなくて残念だな」
僕は洗い上がった弁当箱を棚に置いた。
カウンターの隅の激甘コーヒーを見る。
誰かのために用意されたものは、消費されなければ、ただそこに在り続けるだけの呪いになる。
僕のコーヒーは、まだ蓋が開いていない。
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