第8話 キャンパスの風景画家
芸術の秋、とはよく言ったものだ。
キャンパス内の並木道が色づき始めると、スケッチブックを小脇に抱えた学生たちの姿が目立つようになる。
彼らは世界を切り取り、紙の上に閉じ込める魔法使いだ。
そして今日、センターに届けられたのも、そんな魔法の書――一冊のスケッチブックだった。
「わあ、すごい! これ見て鏡くん! プロ顔負けだよ!」
塔子が感嘆の声を上げながら、ページをめくっている。
ハードカバーの上等なスケッチブックだ。表紙には何も書かれていないが、中には鉛筆と水彩で描かれた、緻密な風景画が並んでいた。
「見て、この『中央池』の絵! 水面のきらめきとか、鴨の親子とか、すごく繊細! 写真みたい!」
「……ほう。デッサンがしっかりしているな」
僕は横から覗き込む。
確かに上手い。光と影のバランス、構図の取り方、どれをとっても美大生レベルだ。
だが、僕が気になったのは、その「構図」の奇妙な偏りだった。
一枚目の絵。中央池。
塔子は「鴨の親子」に注目しているが、絵の焦点が合っているのはそこではない。
池のほとりにある、古びた木製の柵。その一本が、根元から腐って折れかけている部分だ。
そこが異常なほど緻密に、執拗に描き込まれている。
右下には小さく日付が記されていた。
『10月4日 14:30』
(10月4日……。確か、一年生の男子学生が池に転落してずぶ濡れになった日だな。柵に寄りかかったら折れたとかで)
ページをめくる。
二枚目の絵。第三校舎の階段。
踊り場の窓から差し込む光が美しい……と塔子は言うだろう。
だが、描かれているのは「階段の滑り止めが剥がれかけている段差」だ。
日付は『10月12日』。
教授が足を滑らせて骨折した日だ。
「この絵も素敵! 学食の厨房の裏口かな? 野良猫が魚をくわえてる! 可愛い~!」
塔子が三枚目の絵を指差して笑う。
絵の中の猫は、確かに魚をくわえている。
だが、その魚は調理場から盗み出したものだろうか?
いや、よく見ると、裏口のドアストッパーが外され、重い鉄の扉が今にも閉まりそうな状態で描かれている。
その隙間に、誰かの指が挟まれそうな――そんな緊迫感が、鉛筆の筆致から滲み出ていた。
日付は『今日』。時間は『12:00』。
ついさっきだ。
「……塔子。今日のランチ、学食に行く予定はあるか?」
僕は唐突に尋ねた。
「え? ううん、今日はお弁当持ってきたから。どうしたの?」
「いや。ならいいんだ」
僕はスケッチブックを取り上げ、パラパラと最後までめくった。
どのページも同じだ。
一見すると美しい日常の風景。
だが、その中心には必ず「誰かが不幸になるトリガー(罠)」が描かれている。
この描き手は、風景を愛しているのではない。
その風景の中でこれから起こる「事故」を、あるいは「自分が仕掛けた結末」を、特等席で予見し、味わっているのだ。
これは写生帳ではない。
『不幸のコレクションブック』だ。
「持ち主さん、絵を描くのが大好きなんだね。早く返してあげたいな」
塔子はニコニコしている。
「そうだな。この才能を埋もれさせるのは惜しい」
僕はスケッチブックを閉じた。
今日の日付のページ。学食の裏口。
そこにはまだ、結果(事故)は描かれていなかった。
これから起こるのか、それとも未遂に終わったのか。
……おや?
最後のページに、描きかけのラフ画があった。
四角い建物。プレハブ小屋。
窓の奥に、2つの人影。
一人は楽しそうに笑う女性。
もう一人は、頬杖をついてつまらなそうにしている眼鏡の男。
塔子と、僕だ。
「わあ! これ、ここじゃない!? すごい、私たちもモデルになっちゃった!」
塔子が歓声を上げる。
絵の中の僕の頭上には、天井から吊るされた蛍光灯が、今にも落下しそうな角度で描かれていた。
(……なるほど。次はここか)
僕は思わず天井を見上げた。
古い蛍光灯が、ジジジ……と音を立てて明滅している。
「塔子」
「なに?」
「蛍光灯が切れかかっている。後で交換しておけ。……ヘルメットを被ってな」
「えー? 鏡くんがやってよー。男の子でしょ?」
「僕は事務員だ。肉体労働は管轄外だ」
僕はスケッチブックを棚の一番上、他の荷物に埋もれるような場所に押し込んだ。
この画家は、自分の「予言書」をわざとここに置いていったのだろうか。
それとも、僕がどう動くか試しているのか。
どちらにせよ、僕は踊らされない。
蛍光灯が落ちてきたら避けるだけだし、落ちなければそれでいい。
「芸術は爆発だ、とは言うが……」
僕はカウンターの隅の激甘コーヒーに視線を落とした。
「不発弾の処理は面倒くさいな」
塔子が脚立を持ってきて、楽しそうに蛍光灯の交換を始めた。
その足元がふらつかないよう、僕は無言で脚立を支えてやった。
……あくまで、業務の一環として。
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