第7話 模範的な法学部生

 大学の試験期間が近づくと、センターに持ち込まれる「紙の山」が増える。

 ノート、レジュメ、そして分厚い専門書。

 学生たちの悲鳴と焦燥が染み付いたそれらを、僕は淡々と仕分けていく。


「うわぁ、重たっ! これ、鈍器だよ鈍器!」


 塔子が両手で抱えて持ってきたのは、広辞苑よりも分厚いハードカバーの本だった。

 背表紙には金文字で『詳解・刑法総論 第十版』とある。


「法学部の教科書だな。新品で買えば一万円はする代物だ」

「ひえー、高い! 落とした人、今頃顔面蒼白だね」


 塔子は本をカウンターにドスンと置くと、パラパラとページをめくった。

「でもすごいよ鏡くん。この人、めっちゃ勉強熱心! 見て、この付箋(ふせん)の量!」


 確かに、本の上部からは無数の付箋が飛び出しており、まるで極彩色のイソギンチャクのようだ。

 ページを開くと、重要な箇所には蛍光ペンでラインが引かれ、余白にはびっしりとメモが書き込まれている。


「『構成要件』とか『違法性阻却事由』とか……うーん、難しそう。きっと真面目な優等生なんだろうね!」

「……そうだな。非常に熱心だ」


 僕は眼鏡の位置を直し、その書き込みに目を凝らした。

 確かに熱心だ。だが、熱心の「方向」が少し偏っている。


 通常、学生がマーカーを引くのは「試験に出る用語」や「判例の結論」だ。

 しかし、この本の持ち主が執拗にマークしているのは、もっと実用的な――いや、切実な箇所ばかりだった。


 『正当防衛の成立要件』

 『緊急避難における過剰防衛』

 『心神喪失による責任能力の不在』


 書き込みも、講義のメモではない。

 『パニック状態だったと主張すれば?』

 『凶器の指紋がなければ立証不可』

 『自首による減刑の幅』


 これは学習ではない。

 シミュレーションだ。

 自分の置かれた状況を、法律というパズルにどう当てはめれば「無罪(ゴール)」にたどり着けるか、必死に計算している。


「あ、ここにもメモがあるよ!」

 塔子が指差したページは『死体遺棄罪』の項目だった。

 赤ペンで、震える文字が走っている。


 『見つからなければ、時効は進まない』


「じこう……? ドラマみたいだね! きっと将来は刑事ドラマの脚本家志望かな?」

 塔子は能天気に笑う。


「……あるいは、優秀な弁護士を目指して、犯罪者の心理になりきっているのかもしれん」

 僕は適当な嘘で話を合わせた。


 本を閉じようとした時、ページの間から一枚のレシートがハラリと落ちた。

 近所のホームセンターのものだ。

 日付は三日前。深夜の二時。


 【購入品目】

 ・ブルーシート(厚手)

 ・結束バンド(太)

 ・業務用消臭剤×5

 ・スコップ


「あ、レシート挟まってたんだ。しおり代わりかな?」

 塔子が拾い上げようとするのを、僕は素早く制して手元に引き寄せた。


「ゴミだ。僕が捨てておく」

「え? でも、もしかしたら……」

「財布の中身ならともかく、本の間に挟まったゴミまで保管する義務はない」


 僕はレシートを丸め、ポケットにねじ込んだ。

 これを見て塔子がどう反応するかは予想がつかないが、少なくとも「日曜大工の準備」とは思わないだろう。


 僕は教科書を棚の「法学部」コーナーに戻した。

 ここには似たような六法全書がいくつも並んでいる。


「持ち主さん、早く取りに来て勉強再開できるといいね!」

 塔子が明るく言う。


「そうだな。試験(じっせん)は待ってくれないからな」


 僕は、カウンターの隅の激甘コーヒーを眺めた。

 この本の持ち主は、今頃どうしているだろうか。

 スコップを持って山へ向かっているのか。それとも、震えながら警察署の前を行き来しているのか。


 この本を取りに来るとしたら、それは「全てが終わった後」か、あるいは「隠蔽に失敗した時」か。

 どちらにせよ、ここにあるのはただの「落とし物」だ。

 法を学ぶ者が法に触れた痕跡。

 それをどう裁くかは、僕の仕事ではない。


「……六法全書より重いな、人の罪というのは」

 僕は小さく呟き、次の業務に取り掛かった。

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