第4話 止まった時間と、動き続ける秒針

 午後二時。大学のキャンパスが最も気だるい空気に包まれる時間帯だ。

 僕はカウンターで頬杖をつき、目の前の「遺失物」を眺めていた。


 銀色の腕時計だ。

 文字盤は黒。ガラスに傷1つない、無骨だが洗練されたデザイン。

 ベルトの革もまだ新しい匂いがする。


「ねえ鏡くん、それ、動いてないね」

 塔子が横から覗き込み、不思議そうに言った。

「電池切れかな? まだ新しそうなのに」


 確かに、秒針はピクリとも動かず、沈黙を守っている。

 時刻は『10時15分』を指したまま凍りついていた。


「いや、これは電池式(クォーツ)じゃない」

 僕は時計を持ち上げ、軽く振ってみせた。

 シュルル、と内部でローターが回転する微かな音が手に伝わる。

「機械式、それも自動巻きだ。持ち主が腕につけて生活し、その腕の振りが動力となってゼンマイを巻く仕組みだ」


「へえー! 人間と一緒に生きてるみたいだね!」

 塔子が感心したように目を丸くする。

「ロマンチック! じゃあ、持ち主さんが外して置いておいたから、寂しくて止まっちゃったんだね」


「……ロマンチック、か」

 僕は鼻で笑った。

「機械に感情はない。あるのは物理法則だけだ」


 僕は時計を裏返し、シースルーバックになっている裏蓋から、精緻な機械の心臓部を覗き込んだ。

 

「一般的な自動巻き時計のパワーリザーブ……つまり、満タンまで巻かれた状態から放置して止まるまでの時間は、大体40時間といったところだ」


「よんじゅうじかん……えっと、二日弱?」


「そうだ。今日届けられたのが午後一番。拾われた場所は?」


 僕は届け出の用紙に目を落とす。

 【拾得場所:体育館裏・用具倉庫の裏手】


「用具倉庫の裏……また随分と人気のない場所だな」

「体育の授業で着替える時に外しちゃったのかな?」


「それなら更衣室にあるはずだ。わざわざ倉庫の裏で着替える奴はいない」

 僕は冷めたコーヒーを一口啜る。


「計算してみろ、塔子。今から40時間を引くと、一昨日の夜だ。そして、時計が止まっているのは10時15分」


 つまり、この時計の持ち主は、一昨日の夜、あるいはそれ以前にこの時計を腕から外し――そして、それきり時計に触れていないことになる。


「あれ? でも、拾ってくれた学生さん、『昨日の昼には何も落ちてなかった』って言ってたよ?」

 塔子が記憶を辿りながら言う。

「毎日そこで筋トレしてる人だから、間違いないって」


 昨日の昼にはなかった。

 しかし、時計の針が示す「最後に動いていた時間」は、それよりも遥か前だ。


 矛盾している。

 考えられる可能性は2つ。


 1つ。持ち主が「止まった時計」をわざわざ持ち歩き、用具倉庫の裏に落とした。

 ……不自然だ。動かない時計を持ち歩く意味がない。


 2つ。

 この時計は、一昨日からずっと「そこ」にあった。

 ただ、昨日の昼の時点では、誰かの目には触れない場所――例えば、倉庫の床下や、草むらの奥深く、あるいは『動かせないもの』の下――に隠れていた。

 それが何らかの拍子に転がり出てきたのだとしたら?


「……不思議だねぇ」

 塔子は首を傾げている。「まあ、誰かがイタズラで置いたのかな?」


「まあ、そういうこともあるよな」


 僕は時計のリューズをつまみ、回した。

 カリカリカリ……という乾いた音が響く。

 ゼンマイが巻かれ、心臓が再び鼓動を始める。秒針がチチチチ……と規則正しく時間を刻み始めた。


 僕は現在時刻に合わせて針を進めた。

 10時15分という「死亡推定時刻」は、これで永遠に失われた。


「あ、動いた! よかったね、時計さん!」

 塔子が手を叩く。


 僕は動き出した時計をビニール袋に密閉した。

 この時計は生き返った。

 だが、これを腕につけていた持ち主の時間は、どうだろうか?


 体育館の裏手。夜の10時。

 そこで何があったのか、この秒針だけが見ていたはずだ。

 激しい振動。抵抗する腕。そして、ふっつりと途切れる動力。


「……綺麗な時計だ。傷1つない」

 僕は独り言のように呟き、それを棚の奥へとしまった。


 傷がないということは、抵抗する間もなく外されたか、あるいは自分から差し出したか。

 どちらにせよ、持ち主が取りに来ることはないだろう。

 なぜなら、彼はもう「時間を気にする必要のない場所」にいるはずだから。


 センターの壁に掛けられた時計が、カチリ、と無慈悲に分を刻んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る