第3話 完璧なコーヒーブレイク
大学の裏手にある自動販売機は、いつも低い羽音のような駆動音を立てている。
僕はその音が嫌いではない。世界が正常に機能している証拠みたいで、落ち着くからだ。
僕はポケットから小銭を取り出し、投入口へ滑り込ませる。
迷うことなくボタンを押す。
ガコン。
一本目。無糖のブラックコーヒー。これは僕の脳を覚醒させるためのガソリンだ。
続けて、もう一度コインを入れる。
今度は一番下の段にある、派手な金色の缶のボタンを押す。
ガコン。
二本目。『練乳入り・激甘カフェオレ』。砂糖とミルクの暴力のような飲み物だ。
僕は冷たい二本の缶を手に取り、センターへと戻った。
「おっはよー鏡くん! 今日も二刀流だね!」
センターの扉を開けると、既に到着していた塔子が元気よく挨拶をしてきた。
彼女はデスクの上にお気に入りのマイボトル(ピンク色で猫のイラスト入り)を置き、温かいハーブティーを啜っている。
「おはよう、塔子。二刀流じゃない。これは儀式だ」
「儀式?」
「ああ。朝の糖分とカフェインのバランスが、一日の業務効率を決定づけるんだ」
僕はもっともらしい嘘をつき、ブラックコーヒーのプルトップを開けて一口飲んだ。
そして、もう一本の――激甘カフェオレの方は、開けることなく、いつものようにカウンターの隅へと置いた。
そこは書類の山と壁に挟まれた、ほんの少しのデッドスペース。
埃ひとつない、特等席だ。
「ふーん。鏡くんって痩せてるのに、意外と甘党だよね。代謝がいいのかな? 羨ましい」
塔子は自分のボトルの蓋を閉めながら、屈託なく笑う。
彼女は聞かない。
「ねえ、その甘いコーヒー、いつ飲むの?」とは。
なぜなら、彼女は僕が仕事中にチビチビと飲んでいると思っているからだ。あるいは、僕が二本とも自分で消費する「カフェイン中毒者」だと思っている。
都合がいい。
人は他人の飲食習慣になど、大して興味を持たないものだ。
「それより鏡くん、これ。さっき届いたの」
塔子がカウンターに置いたのは、ジャラリと音を立てる鍵束だった。
家の鍵、自転車の鍵、そして車の鍵までついている。
「また鍵か。学期末はみんな気が抜けているな」
「でね、見てよこれ」
塔子が鍵束についているキーホルダーを指差した。
それは、白いクマのぬいぐるみだった。……かつては白かったであろう、薄汚れたクマだ。
「随分と年季が入っているな」
「でしょ? きっと、小さい頃から大事にしてた宝物なんだよ! 首のところが取れかかってるのを、何度も縫い直した跡があるもん」
確かに、クマの首元には不器用な縫い目が幾重にも重なっていた。
まるで、千切れそうになる首を必死に繋ぎ止めたかのように。
「……首の皮一枚で繋がっている、か」
僕はボソリと呟く。
「え? 何か言った?」
「いや。大事なものなら、落とさないように気をつけるべきだったな、と言ったんだ」
僕は鍵束をタグ付けし、保管箱へと投げ入れた。
ガチャリ、と無機質な音がする。
その時、ふと視界の端で何かが揺れた気がした。
カウンターの隅。激甘カフェオレを置いた場所だ。
もちろん、そこには誰もいない。
ただ、窓から差し込んだ陽の光が、金色の缶を照らしているだけだ。
だが、僕は知っている。
甘い匂いには、色々なものが寄ってくる。蟻も、蜂も、そして――行き場を失った「何か」も。
「……さて、仕事だ」
僕はわざとらしく声を出し、意識を切り替えた。
塔子が背を向けて書類整理を始めたのを確認して、僕はカウンターの隅に向かって、音にならない声で囁いた。
(……冷めないうちに飲めよ)
缶の表面についた結露が、一筋の涙のようにツゥーっと垂れ落ちて、カウンターに小さな輪染みを作った。
「ん? 鏡くん、独り言?」
塔子が振り返る。
僕はブラックコーヒーをあおり、苦味で口の中を洗った。
「いや。……喉が渇いただけさ」
まあ、そういうこともあるよな。
誰のためのコーヒーか。それは、飲み手が一番よく知っているはずだ。
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