第2話 片方だけの靴(右)
遺失物管理センターの朝は、缶コーヒーのプルトップを開ける音から始まる。
プシュッ、という炭酸が抜けるような音が、静寂に満ちた部屋に響く。
僕はブラックコーヒーを一口飲み、もう一本――黄金色のパッケージが眩しい『超微糖(という名の実質激甘)』コーヒーを、いつもの定位置であるカウンターの隅に置いた。
ここには誰も座っていない。ただ、埃を被った古いパイプ椅子があるだけだ。
だが、物を置くにはちょうどいいスペースだった。
「おはよう、鏡くん! 今日もいい天気だね!」
定刻通りに塔子が出勤してくる。彼女は自分のリュックをロッカーに放り込むと、すぐにカウンターへ身を乗り出した。
「ねえねえ、今日はどんな『迷子』が来てる?」
「今のところ平和なものだ。講義室に置き去りにされた筆箱が2つ、図書館で発見されたマフラーが一本。……それと、これだ」
僕は足元の段ボール箱から、1つの物体を取り出してカウンターに置いた。
ドン、と少し重たい音がする。
それは、スニーカーだった。
白を基調に、蛍光色のラインが入ったスポーティーなデザイン。靴底は厚く、クッション性が高そうだ。有名ブランドの新作で、定価なら数万円は下らないだろう。
「わあ、かっこいい靴! 新品かな? ピカピカじゃん」
「ああ。泥汚れ1つない。一度も地面を踏んでいないかのように綺麗だ」
だが、塔子はすぐに首を傾げた。
「……あれ? もう片方は?」
「ない」
僕は短く答えた。
「届けられたのは、この『右足』だけだ」
そう。ここにあるのは右足用の一足のみ。左足用は影も形もない。
「ええー? 片方だけ落とすことなんてある? あ! わかった!」
塔子がポンと手を叩く。
「シンデレラだよ! 現代版シンデレラ! 急いで階段を駆け下りたイケメンが、靴を落としちゃったんだよ。で、これを拾った人が運命の相手……みたいな?」
「……塔子。現実は童話じゃない」
僕は冷静に事実を指摘する。
「まず、これはサイズ28センチの男物だ。そして、靴紐を見てみろ」
僕はスニーカーの甲の部分を指差した。
紐は固く、二重に結ばれている。
「こんなにガチガチに結んであったら、走っている最中に脱げるわけがない。脱ぐには手を使って紐を解くか、あるいは……」
あるいは、誰かに足首を掴まれ、無理やり引き抜かれるか。
そんな暴力的な光景が脳裏をよぎったが、口には出さない。
「あるいは?」
「……いや。あるいは、バッグに入れて持ち歩いていて、そこから転がり落ちたのかもしれないな」
「あー、なるほど! ジムに行く途中とかね! それなら納得!」
塔子は納得したように頷いている。
僕は「遺失物管理台帳」を開き、慣れた手つきで記入を始めた。
【遺失物No.1025】
【品名】スニーカー(右・白)
【拾得場所】北校舎裏・駐輪場付近
【状態】新品同様。紐に固結びあり。
拾得場所は駐輪場のフェンス際だったと、届けに来た学生は言っていた。
あそこは夜になると街灯が少なくて真っ暗になる場所だ。バッグから落ちた靴に気づかないなんてことがあるだろうか?
それに、もしバッグから落ちたのなら、なぜ「右足だけ」なのか。普通、靴は2つ一組で袋に入れるものではないか?
「ねえ鏡くん、持ち主、取りに来るかな?」
塔子がスニーカーをつんつんと突きながら言う。
「さあな。来ないんじゃないか?」
僕はボールペンを回しながら、冗談めかして言った。
「だって、左足がないんじゃ、ここまで歩いて来られないだろ?」
「もう! またそういう意地悪を言う! ケンケンして来るかもしれないじゃん!」
塔子は頬を膨らませて笑った。
僕は笑わない。
もし、持ち主が「左足の靴」だけを履いて、あるいは「左足だけ」になって、どこかを彷徨っているとしたら。
この右足を取りに来ることなど、永遠にないだろう。
僕はスニーカーをビニール袋に入れ、棚の「保管」スペースへと放り込んだ。
物には対(つい)になるべき相棒がいる。
箸、手袋、靴。
片方だけになったそれらは、機能を失ったただのガラクタだ。
「……早く揃うといいな」
僕がボソリと呟くと、塔子は「えっ?」と聞き返した。
「あ、持ち主が見つかるといいねってこと? 鏡くん意外と優しい~」
「まあ、そういうこともあるよな」
僕は曖昧に頷き、眼鏡の位置を直した。
僕が待っているのは持ち主ではない。
いつか届けられるかもしれない、泥と血にまみれた「左足」の方だ。
そうでなければ、僕のコレクション(帳簿)は完成しないのだから。
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