第6話 水に映る願い ――貴船神社にて①

◆恋みくじは夜に濁る


夏の京都は、息をするたびに水の匂いを孕んでいた。

午後の陽は高く、蝉の声が山の木々を震わせる。

川沿いの風が頬を撫で、青葉の香を運んでくる。


昼間、澪は大学の友人たちと鞍馬の山道を越えた。

苔むした石段、差し込む木漏れ日、遠くの鳥の声。

時折、鹿の足音のような響きが風に紛れる。

谷を渡り、沢を越えるたびに、水が岩肌を滑ってきらめいた。


「もう少しで川床だよ!」

「お腹空いた~!」


笑い声が澄んだ空に溶けていく。

夏の京都は熱を帯びながらも、静かな優しさを秘めていた。

木々が呼吸をするようにざわめく。


やがて川床の店が見えた。

水面に張り出した木組みの縁台。座れば、足元から涼気が立ちのぼる。


「この風……川が近いっていいね」

「ほんと、京都で一番涼しい場所かも」


澪は箸を置き、目を閉じた。

流れる水音、涼を運ぶ風、蝉の声。

すべてがひとつに溶け合い、山そのものが歌っているようだった。


……なのに。


手首の月紋が、かすかに熱を持つ。

危険ではない。

ただ、境界が近いと知らせる程度の、淡い脈動。


(ここも、夜は“向こう側”に近いんだ)


「夜になったら灯籠を見に行こう!」

「うん、幻想的なんだよね」


冷茶を飲み干し、席を立つ。

川床の板に落ちた木漏れ日が、ゆらりと揺れた。

風が冷たさを増す。澪はゆっくり石段を登る。


朱に染まる空。長く伸びる影。

――夕暮れが、ゆるりと近づいていた。


その空気の中に、ふっと懐かしい匂いが混じる。

香木のような、静かな甘さ。

胸の奥で、あの人の顔が浮かんだ。


(……意地悪な声。金の瞳)



陽が傾き、山の稜線が長い影を落とす。

貴船神社の参道。

両脇の朱の灯籠が、ぽつりぽつりと灯り始めた。


光が石段を染め、水面に揺らめく。

朱の列はどこまでも続き、夜そのものが花嫁行列のように

ゆるやかに進んでいく。


(――ああ、これだ。これを見たかったんだ)


川のせせらぎと灯のゆらぎが重なり、境内は夢のような神秘に包まれた。

灯籠の列はまるで――恋という名の道しるべ。


「恋みくじ、当たるらしいよ! 澪も引きなよ!」


「……恋みくじ?」


「好きな人を思い浮かべて、水に浮かべるんだって!」


澪は少し迷いながら、一枚の和紙を手に取った。

灯籠の朱が指先に映り、胸の奥が小さく鳴る。


(好きな人……)


思い浮かんだのは、金の瞳。

意地悪な声。甘い匂い。否定したくて、否定できない。


澪は息を整え、紙を水面に浮かべた。


じわり、と文字が滲み、浮かび上がる。


――『願いは夜に変わる』。


その瞬間、灯が揺れた。

空気が凪ぎ、音が消える。

人の声も、蝉の声も、遠くへ押し流された。


(……え?)


手首の月紋が、はっきりと熱を持った。

危険の熱だ。

喉の奥に、名前が“通る”感覚が生まれる。


水面の奥で、白い影が揺れた。


白い着物。乱れた黒髪。額に黒帯。

濡れた髪が頬に張りつき、氷のような瞳が澪を射抜く。


「――あの人を奪った女」


底冷えする声。

次の瞬間、冷たい指が澪の喉を掴んだ。

息が詰まり、水が首筋を這う。


「恋の神のもとで、人は祈り、願い、そして呪う」


「……や、め……っ」


「私は願ったの。

“あの人が他の女を想うなら、呪い殺してほしい”と」


水音が、遠くで笑うように響く。

白い女の瞳に、涙のような炎が宿った。


「あなたも、そうなるの。

人を愛したら、いつか――狂うのよ」


意識が揺らぐ。胸の奥に、橋の下の冷えが流れ込む。


(偃月さん――!)


声にならない呼びかけが、月紋を通って夜へ抜けていった。


そのとき。


「――恋とは、狂気の種ですからねぇ」


低く、静かな声が水を裂いた。


銀の光が奔り、川面が一瞬で凍りつく。

凍結した水面が鏡のように輝き、朱の灯籠をくっきり映した。


朱の灯を背に、偃月が立っていた。

黒衣の裾が風に舞い、金の瞳が淡い光を宿す。


「やれやれ……君は本当に、目を離すとすぐこれだ」


指先ひとつで、冷たい手が澪の喉から離れる。

澪は咳き込み、やっと空気を吸った。


「……偃月さん……」


「貴船神社。恋の神と呼ばれていますが

――同時に、“丑の刻参り”の地でもある」


偃月の声は、諭すようでいて断定だった。

朱の灯が揺れ、風が渦を巻く。


「愛と呪いは、同じ川の両岸。流れる水は一筋。

……恋とは人を狂わせる。呪いと恋は、紙一重です」


橋姫の白い顔が歪む。


「愛していたのに……あの人は、私を見なかった……」


偃月は右手を掲げ、金の光で橋姫を包んだ。

光は熱ではなく、夜を冷ます月の温度だった。


「願いは流せば澄み、留めれば濁る。

――君も、そろそろ休みなさい」


「……愛していたの」


その言葉が、水に溶けていく。

ひと粒の涙が落ち、輪を描いた。


偃月は煙管を指先に構え、朱の火を水面へ放つ。

火は燃やさない。祈りとして、送る。


――葬送の詩を。


水に映る恋の影

名を呼ぶ声、波に消え

想いは沈み、光は昇る

流れよ――この魂を還せ


金の光が川面を満たし、橋姫の姿は静かにほどけた。

憎しみだけが残るのではない。

泣き顔の奥に、恋の名残が見えたまま。


「……哀しきものほど、美しい」


月光の中で、偃月の横顔は悲しくも穏やかだった。


世界が息を吹き返す。

蝉の声、風の音、灯籠の朱。

夜がゆっくりと鼓動を取り戻していく。


偃月が澪の肩に手を置く。

その掌は、夜よりも穏やかだった。


「……君、息が苦い」


「えっ?」


「願いが尖っていましたね。恋みくじに“夜”が映った」


澪は慌てて首を振る。


「私、呪ってませんよ?」


「ええ。呪いではない」


偃月は微笑んだ。


「ただ、恋をしていると、誰もが少しだけ“濁る”。

それを責めはしません。どう扱うかで、人は変わるのです」


灯籠の火が、金の瞳に映る。

澪はその光を見つめ、息を吐いた。


(……橋姫の気持ち、分かる気がした。

想いが深くなりすぎると、呪いになってしまうんだ)


風が参道を撫で、炎がやさしく揺れた。


「恋は――灯る時と消える時が、美しい」


その声が胸に落ち、澪は偃月を見上げた。


「……好きになるって、苦しいなぁ……」


朱の灯籠が滲み、夜の涙のように揺れた。

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