第5話 六月の京都、幽霊子育て飴
六月の京都は、雨の匂いを孕んでいた。
山裾の空は薄く霞み、石畳には昨日の雨の名残がまだ光っている。
六波羅蜜寺の境内に足を踏み入れた瞬間、空気がふっと変わった。
――澪は、この静けさが好きだった。
都会の喧噪はここまでは届かない。
木々が揺れる音、風の通り抜ける音、そしてほのかに漂う線香の香。
胸の奥に波のような安らぎが広がり、ざわめきが静かに沈んでいく。
……それなのに。
手首の月紋が、ちり、と小さく熱を持った。
百夜通いを終えてから、こういう“予感”が増えた気がする。
匂いが先に来る。
音より先に、境界の冷たさが肌を撫でる。
(また、何か――)
澪が息を整えるより先に、背後から弾む声が飛んできた。
「お金持ちになっちゃうぞー!」
友人たちが銭洗い弁天の前で小銭をざぶざぶ洗っている。
霊水が陽の光を受けて跳ね、きらきらと輝いた。
「澪も洗いなよ! ご利益あるって!」
「うーん……倍になっても奨学金は消えないと思うけど」
「現実的~! もうちょっと夢見ようよ!」
笑い声が弾む。
澪はくすりと笑って、手拭いで汗を拭いた。
(……夢、か)
ふと、弁財天像の隣に立つ石柱に目が止まる。
黄金の梵字が刻まれた「一願石」。
――回すと、一つだけ願いが叶う、と説明が添えられている。
風が頬を撫でる。
澪は無意識に手を伸ばした。
指先に触れた石は、思っていたより温かい。
まるで、誰かの手のひらの記憶が残っているみたいに。
(もし、一つだけ願えるなら――)
胸の奥に、あの人の顔が浮かぶ。
白銀の髪。金の瞳。やさしい声と、逃げ場のない優しさ。
……すぐに首を横に振った。
(だめ。私の願いは、もっと――)
澪は指先で石を三度回した。
梵字が光の粒をまとい、静かに揺れた。
その瞬間――視界の端を、白い影が横切った。
白い着物の女。
腕に、小さな包みを抱いている。
袖口から、飴の包み紙がひらりと舞った。
「……今の……?」
澪が立ち止まる。
だが友人たちは何も気づかない。
笑い声だけが風に流れ、境内の空気はひときわ冷たく沈んでいった。
女は弁財天の陰を抜け、六波羅蜜寺の裏――六道の辻へと消えていく。
歩くたび、白布の裾が光の粒を散らした。
風が一度だけ吹き抜ける。
――カラン。
軒先の風鈴が鳴った。
まるで見えない誰かが“こちらへ”と呼んでいるように、
澪の胸の奥で同じ音が響く。
◆
帰り道。
澪は友人たちと別れ、一人で六道の辻へ向かった。
胸の奥がざわつく。怖いのに、引かれる。
印が熱を持つたび、足が勝手に“正しい方向”へ行ってしまう。
細い路地を抜けると、古びた木の看板が風に揺れていた。
「幽霊子育て飴」
小さな飴屋が一軒、軒先の風鈴がカランと鳴る。
観光客の姿もない午後。
静まり返った辻の空気には、どこか懐かしい匂いが漂っていた。
(……はちみつ。線香。あと――冷たい乳の匂い)
澪は息を呑む。
匂いはやさしいのに、胸の奥を締めつける。
泣き女の湿った怨とは違う。
乾いて、薄くて、それでも剥がれない未練の匂い。
「すみませーん……」
返事はない。
代わりに、奥から冷たい風が流れてきた。
その風に押されるように、飴玉がひとつ、ころりと足元に転がる。
澪が拾い上げた瞬間――背後から声がした。
「――この子に、飴を持っていきたくて」
振り返ると、白い着物の女が立っていた。
頬は雪のように白く、瞳は深い湖のように澄んでいる。
腕の中には小さな包み。赤子の輪郭が、布越しにかすかに見えた。
「あなた……さっきの……?」
「この子が、夜になると泣くの。お腹が空いて
……でももう、何もあげられないから」
澪の喉がきゅ、と鳴る。
その姿は現のものではなかった。皮膚の温度が違う。息がない。
けれど“母”だけは確かにそこにいる。
「……あなた、“飴買い幽霊”……?」
女は静かに頷いた。
「この子が笑ってくれるなら、それでいいの。
それだけで――わたしは、ここに居られる」
女の視線が、澪の手の中の飴玉に落ちた。
欲しがっているのに、触れられない。
触れられないことが、何より哀しい。
(渡したいのに、渡せないんだ)
澪は飴玉を握りしめた。
握った瞬間、はちみつの甘い匂いが強くなる。
胸の奥まで染みて、思わず目頭が熱くなった。
「……待って。どうすれば、その子に渡せるの?」
女は答えない。
風が通り抜け、白い影がふわりと揺らめく。
次の瞬間、女の姿は霞のように薄れ――消えた。
「待って……!」
声が空に溶ける。
足元には、飴玉がひとつだけ残っていた。
やさしいはちみつの匂いが、雨の気配に溶けていく。
残ったのは、甘さよりも、置いていかれた温度だった。
◆
「――で、飴を持った白い女の人が、“子に渡したい”って言って、
消えたんです」
喫茶偃月。
澪の話を聞きながら、偃月は煙管をくるりと回した。
金の瞳が灯りの中で淡く光る。
「ああ、六道の辻。現世と冥界の境目ですからね。
“幽霊子育て飴”の話は有名です」
「……本当にいたんですね」
「母の愛は、死を越えても残る。
あやかしよりも、よほど深く、厄介ですよ」
「厄介……それ、褒めてます?」
「ええ、もちろん。愛というのは、時に呪いよりも強い」
偃月はふっと笑い、紫煙を宙に描いた。
その指の動きが、夜気を切り裂くように優雅だ。
美しいのに、怖い。葬送人の手だと思うと、なおさら。
「君も見えたのなら、何かの縁です。
“子を想う母”と、“誰かを想う娘”――似た匂いがしたのでしょう」
「……私が、誰かを想う心が?」
「さぁ?」
金の瞳が細められる。
冗談めいた声音の奥に、底知れぬ光が宿る。
「もし、一つだけ願いが叶うとしたら――君は、何を望みますか?」
「っ……」
澪は目を逸らした。
言えば崩れる。言わなくても見透かされる。
「……言ったら、叶わなくなる気がします」
「ふふ。言わずとも分かりますよ。君の瞳が、とても正直ですから」
「……ほんとに、意地悪ですね」
「私は正直なだけです」
偃月は口元に微笑を浮かべたまま、低く囁いた。
「――君の願いを、叶えてあげたいと思うほどには、ね」
胸の鼓動が、ひどくうるさい。
そんな気がないくせに。
そう思うのに、声だけで熱が生まれる。
偃月はゆるりと立ち上がり、棚の上から古びた瓶を取り出した。
琥珀色の液体が灯に透けて揺れる。
「さて。甘いものでもどうです? 飴の話を聞いたら、舐めたくなりまして」
「……飴なんて、仕入れてましたっけ?」
「仕入れていません。君が持っている」
「え?」
偃月は煙管の火を落とし、澪の手首を一瞬だけ見た。
“覗く”のではない。
印の熱の揺れを確かめる、職人の目。
「印が熱い。……それに、はちみつの匂いがする」
澪は驚いてポケットを探る。
そこには、昼間あの女が残した飴玉があった。
「……え、いつの間に……」
「境界のものは、持ち主を選ぶんですよ。君のポケットは、優しい」
「褒めてます?」
「ええ。褒めています」
褒め言葉のはずなのに、背中がぞくりとした。
“選ばれた”
ということは、もう逃げられないということだ。
◆
その夜。
澪は夢の中で、再び六波羅蜜寺に立っていた。
境内は月光に照らされ、白く静まり返っている。
弁財天の隣、一願石が淡く光を放つ。
その前に、白い女がいた。
腕の中で眠る赤子に、微笑みを向けている。
泣き声は聞こえない。
けれど胸が痛い
。泣いているのは、母のほうだと分かってしまうから。
「次は、あなたの想いが届くといいわね」
女は澪にそう言って、静かに笑った。
澪は何も言えず、ただ頷いた。
光が舞い、女と子は静かに消えていく。
石の上に、飴玉がひとつ転がった。
ころり。
転がる音が、鈴の音に変わる。
カラン、と。
その響きに、澪の手首が熱を持った。
まるで“次はあなた”と、縁が囁いたみたいに。
◆
翌夜。
喫茶偃月のカウンターで、澪は飴玉を指先で転がしていた。
飴の表面に、灯が小さく映る。
「……これ、舐めてみてもいいですか?」
「どうぞ。願いの味がするかもしれませんよ」
飴を口に含むと、懐かしいはちみつの甘みが広がった。
やさしくて、少し切ない。
甘いのに、喉の奥が痛む。
「……甘いです。けど、なんだか泣きそう」
偃月はふっと笑う。
「恋も、母の愛も、甘さと痛みは紙一重です」
「……そういうこと、さらっと言うんですね」
「詩人ですから」
「詩人じゃなくて、意地悪な葬送人ですよ」
偃月は笑い、煙管の火を灯す。
赤い火点が、彼の横顔を淡く照らした。
「――それは褒め言葉ですよ。
私は“死”を見届ける者。
欲も、愛も、執着も……それがあるからこそ、生は尊い」
澪は飴を舌の上で転がす。
甘さが、ゆっくり溶けていく。
溶けるほど、胸の奥の痛みが輪郭を持ってしまう。
「……ねえ、偃月さん」
「はい」
「私、あの幽霊の人に……何かしてあげられるのかな」
偃月は少しだけ目を伏せた。
それは“可哀想だから”ではない。縁の重さを量る目だ。
「できますよ。君が“持ってしまった”のなら、もう縁は切れない」
「え、やっぱり……」
「怖がらなくていい」
偃月は淡く笑って、澪の手首ではなく、飴玉のほうを見る。
「母が望むのは、飴そのものではありません。
――“渡せなかった”
という痛みを、ほどくことです」
胸の奥が、すとんと落ちる。
物ではなく、行為。思い。伝えること。
「……私が渡すの?」
「ええ。境界に触れられるのは、君です」
偃月の声は静かで、逃げ場がないほど確かだった。
「――今度は、私が一緒に行きましょう」
その言葉が、胸の奥を少しだけ温めた。
ずるい。なのに、救われる。
窓の外では、雨上がりの光が石畳を照らしている。
遠くで、六波羅の鐘が静かに響いた。
澪の舌の上では、飴がゆっくりと溶けていく。
その甘さは――まるで、報われない恋の余韻みたいに、やさしく痛かった。
そして澪は、確信する。
この飴は“願い”だ。
母の願い。子の願い。
そして、いつか自分が口にしてしまうかもしれない
――叶わない願い。
手首の月紋が、ちり、と熱を返した。
まるで次の夜が、もう戸口に立っているみたいに。
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