第6話 水に映る願い ――貴船神社にて②

◆忘却の願いと、名残の錨


夜の雨が石畳を濡らしていた。

暖簾の向こうから、珈琲の香と鈴の音。


扉を開けると、カウンターの奥で偃月が煙管を燻らせている。

窓越しに映る灯が、金の瞳に揺れた。


「どうしたんです? 今日は浮かない顔をしていますねぇ」


「……橋姫の件で、思うことがありまして」


「ほう。何を?」


澪はカップを見つめ、かすかに笑った。

笑えたことが、逆に苦しい。


「人を想うって、怖いなって」


「おや。なぜそう思うのです?」


澪はカップを握りしめる。

指先の力で、白磁がきしむ気がした。


「好きになり過ぎて呪いになるくらいなら……

”想いごと消してほしい”って、思っちゃいました」


偃月はくすりと笑い、煙を吐いた。


「これはまた。いつからそんな情熱的になられたんです?」


「からかわないでください。本気でそう思うんです」


澪は目を閉じた。


橋姫の氷の瞳が脳裏に残っている。

恋が、祈りから呪いへ変わる瞬間の冷え。


偃月は笑みを引き、声を少し落とした。


「……願ってみてはどうです?」


「え?」


「消す前に、その恋の想いを言葉で。

――案外、月は叶えてくれるかもしれませんよ」


穏やかな声音が、澪の胸を切る。

澪は息を吸い、目を開けた。


「自分勝手な願いは……呪いと同じだと思うんです」


「ほう」


「もし叶ったとしても、それは空しいだけでしょ?

そこに心が無ければ、意味が無いと思うんです」


澪は真っすぐ偃月を見つめた。

逃げない。今日は、逃げないと決めて来た。


「それでも――言葉にして願いが叶うなら」


瞳が静かに揺れる。


「偃月さんと出会った記憶、全部……消してください」


偃月の目がわずかに見開かれた。

次の瞬間、喉の奥で、くく、と笑いが漏れる。


「良いですねぇ。その眼差し……子犬が主に噛みつく」


「笑わないでください」


「笑っていません。――感心しています」


偃月は立ち上がり、ゆるやかに歩み寄った。

距離が詰まるだけで、澪の手首の月紋がちり、と熱を返す。


「消してほしければ、消して差し上げますよ。――ただし」


偃月は澪の手首に触れる寸前で止め、言った。


「触れていいですか」


澪は一瞬、息を呑む。

それは命令ではなく、確認だった。

契約の“条件”を守るための。


「……はい」


偃月の指が、そっと澪の手首を取る。

掴むのではない。

確かめるように、壊さない強さで。


「君は忘れても、夜は君を忘れない。

庇護は外さない。君が危ういからです」


「……それ、ずるい」


「ええ。私は欲深い」


偃月は唇の端を上げ、意地悪く微笑んだ。


「だから“新しい印”は付けません。もう、ここにある」


指先が月紋の上をなぞる。

熱がじん、と広がり、胸が跳ねた。


「代わりに――この印に、私の“名残”をひとつ縫い留めましょう」


「名残……?」


「記憶を消しても、君が迷子にならないための錨です。

君が望む“消去”と、私の望む“庇護”の折衷案」


澪は息を呑む。


怖いのに、救われてしまう。

橋姫のように濁るのが怖いのに、

今ここで“夜に落ちないための錨”を差し出されると、拒めない。


「……本当に、消すんですか」


「ええ。君が望むなら」


偃月は、ほんの少しだけ声を柔らげる。


「ただし、一つだけ条件がある」


澪の喉が鳴る。

「……条件って」


偃月は澪の手を離し、代わりに視線をまっすぐ合わせた。

金の瞳が、夜の底みたいに静かだ。


「消える前に、君の“今の願い”を、身体に残す」


「身体に……?」


「言葉より正直なものですからねぇ。

――口づけてもいいですか」


澪は心臓が跳ねて、反射で首を振りそうになった。

けれど、振れなかった。


(消したいのに、消したくない。怖いのに、欲しい)


その矛盾が、澪の答えだった。


「……はい」


偃月の唇が、澪の唇に触れた。

深く、深く――熱が流れ込む。

押さえつけるためではなく、壊さないための強さで抱かれ、

澪の息が一度だけ詰まる。


唇が離れ、偃月が囁く。


「逃げられるものなら逃げてみなさい。月はどこでも、君を見つけます」


指先が頬をなぞる。吐息が混ざる。


「さぁ――お逃げなさい、愛しい子」


澪は息を呑み、目を閉じた。

雨の音が遠のき、世界がゆるやかに滲む。


手首の月紋が、静かに脈打っていた。

そして澪は、眠りに落ちる直前に思う。


(……消してって言ったのに。私、ほんとは――)


答えは言葉になる前に、雨音へ溶けた。

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2026年1月12日 21:00
2026年1月13日 21:00
2026年1月13日 21:00

『喫茶偃月 ―月の痕と、忘れた客人―』 白玉蓮 @koyomi8464

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