第4話 春霞の百夜通い③

 澪の“百夜通い”が始まった。


 澄んだ月夜も、春雨の夜も。

 提灯の灯が揺れ、石畳に反射する。


 彼に会うたび、胸が少し温かくなる。

 仄かな期待と、交わらない想い。

 積もっていく切なさ。


 ――少将は、どんな気持ちで通ったのだろう。

 望むほど、届かない月が遠くなる夜もあったのだろうか。


 掌の花弁は、時々ひんやりと光った。

 そのたびに澪の手首の月紋も、小さく熱を返す。


(……これ、ただの伝承じゃない。何か、動いてる)


 ◆


 ――そして、九十九夜目。


 澪は熱に伏していた。

 体は重く、喉が焼けるように痛い。


(……今日で九十九日目なのに……)


 行きたい。けれど体が動かない。

 悔しさが込み上げ、涙が零れた。


 鈴の音はしない。

 けれど、部屋の空気が一瞬だけ変わった。


 月光を背に、白銀の髪が揺れる。


「無理をしてはいけません」


 偃月が、枕元に腰を下ろしていた。

 どうやって来たのかを問う余裕もない。


「……偃月さん」

「君の印が、痛いと言っていました」


 額に触れた手が、熱を測る。

 その指先は冷たく、優しい。


「君は約束を守ろうとした。それだけで十分ですよ」

「……でも、あと一夜なのに……悔しい」

「ふふ。律儀な飼い犬ですね。でも君らしい」


 偃月の指先から淡い光が滲む。

 それが胸の奥に染みていき、痛みがほどけていく。


「――“月祈”。少しだけ力を貸しましょう」


 体の奥が、春の日だまりのように温かくなった。

 世界が滲む中、澪は穏やかに笑う。


「……ずるい。こんなの、好きになっちゃう」

「もう、なっています」

「……言わないで」

「覗いてはいませんよ。声に出ています」


 眠りに落ちる直前、偃月の唇が額に触れる。


「……おやすみ、澪」


 その声は、春の夜よりもやさしかった。


 ◆


 数日後――百日目の夜。


 澪は喫茶偃月の扉を開けた。

 春の風が香り、鈴が静かに鳴る。


「百夜通い、完走おめでとうございます」


 偃月が微笑み、夜を映すような深い珈琲を差し出す。


「さて。ご褒美は何がよろしいです?」

 澪はカップの湯気を見つめ、静かに言った。


「……深草少将の魂を、送ってあげてください」


 偃月は目を細める。


「なるほど。それは“ご褒美”ではなく、依頼ですねぇ。

 個人的な願いはないのですか? 抱擁でも、口付けでも」


 澪は首を振った。

 胸は痛むのに、言葉は驚くほど落ち着いていた。


「いりません。そこに特別な想いがないなら、虚しいだけです」


「ほう……強くなりましたね」


 偃月の金の瞳が、春の夜に柔らかく揺れる。


「あなたの想い、確かに受け取りました」


 ◆


 その夜、墨染の桜が咲いた。


 白と薄紅の花が風に舞い、夜気を照らすように光を帯びて散る。

 桜の根元には、桜音と少将が寄り添っていた。


 触れ合う指先。

 絡み合う手。

 その輪郭は淡く、けれど確かに、温かい。


 偃月の声が春風に溶ける。


 春の夢、いまほどけ

 墨の染みに、光宿る

 恋は尽きず、願いは巡る

 咲け、咲け――いのちの花


 桜音と少将の姿が光の粒となって昇っていく。

 絡み合う手を離さぬまま、微笑んでいた。


「……これで、約束は果たされました」


 澪は桜を見上げ、涙を堪えた。


「少将の恋は叶わなかったけど……隣に咲く恋を見つけたんですね」


 偃月は月を仰ぎ、静かに息を吐いた。

 金の瞳が、春の夜のようにやさしく揺れる。


「君は、どうします?」

「……私?」

「百夜通いを終えた。――次の一歩です」


 澪は一瞬言葉に詰まり、そして――強がるように笑った。


「次は、“永夜通い”でもしますか?」

「しません。……おやつがあれば考えますけど」

「おや、随分贅沢な飼い犬になりましたねぇ」

「飼い主が意地悪だから、性格が移ったんですよ」


 偃月は楽しそうに笑い、澪の頭をくしゃりと撫でた。


「ちょっ……ほんとに犬扱いしないでください!」


 風が花を散らす。

 白い花弁が月光に透け、世界が一瞬淡く染まる。


 澪はそっと目を閉じた。

 春の風が少しだけ冷たく感じた。

 それでも胸の奥で、何かが静かに燃えている。


 ――それは報われない、切ない恋という名の灯。


 そして桜は、今も咲き続けている。

 まるで誰かの想いが、この街を照らしているかのように。


 ――了――

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