第4話 春霞の百夜通い②
◆墨染の桜音
数日後。
偃月の頼みで、澪は伏見の墨染寺へ珈琲豆を届けに来ていた。
春霞が漂う境内。
昨夜の雨に濡れた石畳が、陽の光を受けて微かに煌めいている。
その中央に、一本の古桜が立っていた。
幹は黒く艶めき、枝先にはまだ開かぬ蕾。
咲く気配のない蕾は、凍った涙みたいに静かだった。
近づくほどに、胸の奥がざわめく。
(……墨の匂い。湿った紙の匂い。泣き女とは違う、乾いた未練)
手首の月紋が、ちり、と熱を持った。
根元に、小さな影がいた。
「……誰?」
白い着物の少女が振り向いた。
透きとおる肌。髪には桜の花弁が一枚留めてある。
声は春風のようにやわらかいのに、瞳は咲けない蕾の静けさを宿していた。
「
澪は息を呑む。
人ではない――けれど、火月のような危うい熱はない。
ただ静かで、冷たいほど礼儀正しい。
「あなた、優しい匂いがしますね。……月の香り」
「あ……また、それ……」
胸がかすかに疼く。
火月も同じことを言っていた。
“月の香り”は、偃月に繋がる匂い。庇護の証。
桜音は桜の根元に手を置き、淡々と語り始めた。
「この桜は、恋に散った魂を宿しています。
ずっと昔、ひとりの男が――百夜通いをしたの」
「……深草少将?」
「ええ」
桜音は頷く。
「彼は愛する人のもとへ百夜通いを続けました。
けれど九十九夜目に倒れ、その想いは果たされず
――未練だけがここに沈みました」
澪は桜を見上げる。
蕾が開かない理由が、胸に重く落ちる。
「だから、この桜は咲けないの?」
「ええ。彼の心が癒えれば、きっと春が来ます」
桜音はそっと花弁を一枚取り、澪に差し出した。
白い指先が触れた瞬間、花びらが淡く光る。
「月の香りのするあなたが、想いを伝えて。
百夜通いを果たし、恋を告げて。
それでこの桜は――ようやく春を迎えられる」
「……私が、少将の代わりに?」
「代わりではありません。
あなたは“歩ける”でしょう。夜を」
桜音の言葉が、澪の胸の奥を刺した。
歩ける。――自分の足で。
偃月の庇護に頼りきりではなく。
澪は苦笑し、花弁を掌に包む。
掌の中で光が小さく脈打つ。
(ただの伝承じゃない。これは……儀の形だ)
「分かった。叶うかどうかは分からないけど、私がやってみる」
桜音は春風のように微笑んだ。
「ありがとう。あなたの歩く夜が、春を連れてくる」
花びらがひとひら、澪の肩に舞い落ちた。
それは祝福のようで、呪いの札みたいにも見えた。
◆
喫茶偃月のカウンター。
偃月は煙管を燻らせ、澪の話を聞いていた。
朧は澪の膝の上で丸くなっている。
「なるほど。可愛いあやかしに、見事に乗せられましたね」
「言い方!」
「褒めていますよ」
偃月は面白がるように目を細める。
澪は花弁をそっと机に置いた。
淡い光が、月の欠片みたいに揺れる。
「……百夜通い。やるしかない気がして」
偃月の瞳が、わずかに深くなる。
「君が本気で通うなら、私は見届けましょう。
その恋が、どんな形で終わるのか」
「どんな形……?」
「恋か、祈りか、呪いか。百日もあれば、人の心は変わります」
その言葉が胸に落ちる。
“変わる”――それは怖い。
けれど、今のまま止まっているほうが、もっと怖い。
「怖いこと言わないでください」
「今さら?」
偃月は愉しげに笑って、煙管を軽く鳴らした。
「道に迷っても私が迎えに行きますよ。
――リードは、しっかり握っておきます」
「それ、恋の話じゃなくて散歩の話です!」
「おや。比喩が理解できるようになりましたね。成長です」
澪はむっとしながらも、花弁を握り直した。
掌の中の光が、少しだけ温かい。
(百夜通いは、少将の恋を終わらせるため。――でも)
澪は心の中で、言葉にならない続きを飲み込む。
自分の恋は、どこへ行くのだろう。
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