第4話 春霞の百夜通い①

◆百夜通いの予告


春の京都は、淡い霞に包まれていた。

川面を渡る風がやわらかく、散り残った花弁をさらってゆく。

その光景は、まるで誰かの想いが空へ昇る瞬間のようだった。


澪は足を止めて、空を見上げた。

指先に残る春の冷たさが、胸の奥を少しだけ締めつける。


――もう、行かないはずだった。


春雨の夜、雨の帳の向こうで彼に捕まって。

「逃げるのも戻るのも選べる」と言われて。

そのくせ庇護だけは外さない、と静かに宣言されて。


腹が立つのに、あの声が恋しくなる。

そんな自分がいちばん悔しい。


(……一度だけ。ちゃんと、言うだけ)


そう思いながらも、気づけば足はいつもの路地を目指していた。

あの扉の向こうで聞こえる声を、もう一度だけ聞きたかった。


手首の月紋が、ちり、と小さく熱を持つ。

迷った時ほど、印が主の方角を教えるみたいに疼く。



鈴の音が鳴った。


焙煎豆の香り、古い木の匂い。

外の音が一歩で消え、喫茶偃月の夜が始まる。


「いらっしゃい、澪」


カウンター越しに偃月が微笑む。

琥珀の灯が金の瞳を照らし、静かな夜に滲んだ。


澪は鞄の紐を握りしめたまま、息を吸う。


「……ただいま、って言うの、悔しいです」

「では“戻りました”で」

「それも悔しいです」

「困ったワンコですねぇ」

「犬じゃないです!」


いつもの応酬が、胸の奥を少しだけほどいた。


偃月は煙管をくるりと回し、紫煙を月明かりのように揺らめかせる。


「――ところで。君がここへ百夜通ったなら、願いをひとつだけ叶えてあげましょうか」

「えっ……急にどうしたんですか? 怖いんですけど」

「ふふ。昔話ですよ。“百夜通い”という伝承がありましてね」


偃月は淡々と語り出す。


「小野小町に恋した深草少将が、百夜通えば想いを受け入れると告げられた。

 けれど九十九夜目、雪で倒れ――果たせなかった」


「え? あと一晩なのに……」


澪が思わず声を上げると、偃月はくすりと笑う。


「恋というのは、最後の一歩で命を燃やすものです」

「……命まで」

「ええ。恋も祈りも、似たところがあります」


その横顔が一瞬、遠くを見つめた。

火月の姿が脳裏をよぎり、澪の胸がきゅっと痛む。


(……また、そういう顔をする)


「おや? どうしました。急に黙り込んで」

「……火月ちゃんを思い出しました」

「火月、ですか」


偃月は煙管の火を落とす。

火を消す仕草が、まるで心に蓋をするみたいだった。


「彼女は、燃え尽きるという形で、私の手を離れた」

「切ないですね……」

「ふふ。恋を知れば、あなたにもそのうち分かりますよ」


「恋、ですか……」


澪の胸の奥が、ずきりと疼く。

最近知ったばかりの恋と失恋。

目の前の“恋を知らぬふりをする男”にそう言われて、心がひりついた。


偃月が澪の顔を見て、わずかに目を細める。


「……甘い匂いがします」

「え?」

「泣きそうな匂い。怒りと、少しの期待」


「当てないでください!」

「覗いてはいませんよ。君の条件ですからねぇ」


澪はむっとして頬を膨らませる。

偃月は楽しげに肩を揺らした。


「そうですか、そんなに私のことが好きなんですね?」

「やめてくださいっ!」


窓の外、桜の花びらが一枚、夜風に舞う。

それは――誰かの恋の予兆のようだった。


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