第3話 春雨の夜、火の子が還る③

◆雨の追跡、首輪の倫理


あれから澪は、喫茶 偃月に通うことをやめた。


灯を見るだけで胸が痛い。

紅茶の香りも、月の光も、すべてが懐かしくて苦しい。

――これが失恋なんだ、と澪は初めて知った。


(……もう、会わない方がいい)


そう思うのに、夜になると気づけば路地を見上げている。

あの店の小さな灯が遠くに見える気がして、胸の奥がどうしようもなく痛い。


“出会わなければよかった”


そう思った自分が一番嫌だった。

それでも、ひとつだけ確かなことがある。


手首の月紋は、まだ消えていない。


淡い印は静かに脈打つ。

“守られている”という証。

そして、“繋がってしまった”という証。


(……外せるなら、外したい。こんなの、辛い)



春雨の夜。

傘を差して歩き出した澪の耳に、低く懐かしい声が届いた。


「逃げる前に、私に伝えたらどうです?」


その声は雨の帳の向こうから。

顔を上げると、そこに彼がいた。


傘も差さず、銀の髪を濡らしたまま。

春雨を吸ったような金の瞳が、まっすぐに澪を射抜いている。


「……偃月さん? 何で……」


「何で?ですか」


偃月は喉の奥で笑う。


「飼い犬が逃げ出したら、主は探すものでしょう?」


「犬じゃないって言ってます!」


反射で言い返してしまい、澪は唇を噛んだ。

言い返したいんじゃない。

言い返さないと泣きそうだった。


濡れた髪の先から雫が落ち、石畳に小さな波紋をつくる。

その音が、胸の痛みを余計に鮮明にした。


偃月が一歩、距離を詰める。

近づく気配だけで、手首の月紋がちり、と熱を持った。


(……やめて。反応しないで)


澪は一歩下がり、傘の柄を握りしめる。


「もう……偃月さんの庇護はいらないです」


「ほう。なぜ?」


「喫茶にも行きませんから」


偃月はゆるく笑み、言葉を落とした。


「……なるほど。嫉妬、ですか」


「――っ」


頬が熱くなる。

否定したいのに、否定したら全部、認めるみたいで。


「違います」


「本当に?」


金の瞳が細められ、雨に滲む灯を映す。

声が蜜のように甘く、抗えば抗うほど絡みつく。


澪は胸の痛みを押し込めるように言った。


「火月ちゃんにしたこと、分かってます。

葬送なんですよね。必要だったって」


偃月は少しだけ驚いた顔をした。

それから息を吐くように静かに言う。


「ほぉ。理解しているんですか。偉いですねぇ」


その一言が堪えを崩しかける。

褒め言葉の形をしているのに、距離がある。

自分が“守るべき対象”でしかないと突きつけられるみたいで。


「偉い? 飼い犬が賢いって褒めてるんですか?」


言葉が震えた。

雨が頬を冷やす。

涙を誤魔化すには都合が良すぎる。


偃月の指先が、澪の頬に触れかける。

澪は反射でその手を払った。


「触らないでください!」


手のひらの熱が残って、余計に苦しい。

偃月は一瞬だけ目を瞬いたが、怒らない。

むしろ興味深そうに微笑んだ。


「――よろしい。君は“拒む”ことができる」


「……え?」


「契約の最初に、君は条件を出した。覚えていますか。

“勝手に覗かないで”と」


澪の喉が詰まる。

確かに、あの夜、澪は偃月と交渉した。

だから今、拒める。


偃月は雨の中で肩をすくめた。


「君が拒める限り、これは支配ではありません。合意です。

――だから私は苛立たない」


その言い方が、逆に怖い。

合意。契約。

理屈で縛る優しさ。


澪は唇を噛み、震える声を絞り出す。


「……なら、契約を解除してください。もう大丈夫ですから」


偃月の笑みが、ほんの少しだけ消える。

月の底みたいな瞳が、澪の手首へ落ちた。


「残念ですが、首輪は外してあげませんよ」


「首輪って……!」


「言い方が嫌なら、“札”でもいい。君を縛るためではない。

君が帰るための印です」


澪は息を呑んだ。

それは優しさの形をした拘束だ。帰路を与える代わりに、自由を奪う。


「どうして……外してくれないんですか」


「君が提示した解除条件、覚えていますか」


――自力で守りを作れるほどに強くなること。


雨音の中で、その言葉だけがやけに大きく響いた。


「君はまだ、自分の足で夜を渡れない。

印が馴染む前に外せば、君はまた“帰り道”になる」


「……私は、そんなに弱いんですか」


「弱いのではない。――生きているだけです」


偃月は静かに言い切った。


「生きている者は揺れる。欲も、嫉妬も、痛みもある。

それを恥じる必要はありません。君が人である証です」


言葉を失った。

優しいのに、逃げ場がない。

それが偃月という存在の怖さだ。


澪は、泣きそうな声を押し殺して言った。

今度は感情じゃなく、論理で。


「……解除条件が“強くなること”なら、私は強くなりたい。

でも、私は守りの作り方を教わっていない。契約は私だけが守る形です。

――教えてください。夜の渡り方を。私が自分で立てるように」


偃月が、ほんの少し目を細めた。

雨の向こうで、金の瞳が静かに揺れる。


「……いい交渉です」


澪の手首を取る。掴むのではない。確かめるように、そっと。

月紋が熱を帯び、澪の胸が跳ねた。


「……諦めなさい、と言うつもりでしたが」


「え」


「君は“外せ”と泣きつくのではなく、“学ぶ”と言った。

――それなら、私は教えましょう」


それは救いで、同時に逃げ道の封鎖だった。

偃月は澪の耳元へ、雨に溶ける声で言う。


「ただし、庇護だけは外しません。君が生き延びるまで」


「……意地悪」


「おや、それは心外ですねぇ」


ふっと笑って、続ける。


「君が逃げても、追わないと決めていました。

――だが今夜の君は、危うい匂いをしている」


「匂い……?」


「火月の別れを見て、心が焼けた。

その熱は夜の迷子を呼びます。……君が泣けば、泣き女も寄ってくる」


澪は息を呑む。

胸の奥はまだ燃えている。

悔しさも、嫉妬も、寂しさも、全部――熱になって。


「だから私は来た。君を叱るためではなく、守るために」


その言葉が胸の奥に落ちた。

ずるい。そう思うのに、救われてしまう。


偃月は澪の肩を引き寄せる。

雨が二人の間を流れ、体温が近すぎて息が詰まる。


「放してください」


拒絶の形なのに、声が震えた。

偃月が、くすりと笑う。


「良いですねぇ。君の嫉妬に燃えた魂は――」


耳元の囁きが、蜜のように甘い。


「――蜜よりも、甘い」


「っ……!」


澪は押し返そうとして、指先が偃月のシャツを掴んでしまった。

離したいのに、離せない。


偃月は逃げ道を奪う強さではなく、逃げてもいいと言うような優しさで抱く。

それがいちばん残酷だった。


「泣きなさい。怒りなさい。君が生きている限り、その熱は消えません」


「……じゃあ、私は……」


「選べます」


偃月は低く言った。


「喫茶へ戻るか。戻らないか。

そして学ぶか、学ばないか。

ただし、庇護は外さない。君が“帰れる”ようになるまで」


澪の喉が苦く鳴った。


(……ずるい。全部ずるいのに)


雨は静かに降り続け、灯が滲み、二人の影がゆらりと重なった。

冷たい雨と熱い鼓動が混じり合い、境界がゆるやかに溶けていく。


――そのとき。


澪の鼻が、ふいに“別の匂い”を拾った。

湿った紙。墨。古い木。

そして、ほんのわずか――焦げた椿の匂い。


手首の月紋が、ちり、と強く熱を持つ。


「……また?」


偃月が、雨の向こうで目を細めた。


「ええ。もう来ていますね」


店の奥からではない。

夜そのものの底から――鈴の音が、ひとつ落ちる。


ちりん。


朧の尾が二つ揺れる気配が、なぜか遠くで分かった。


「澪。今夜は、喫茶に戻りなさい」

「……命令ですか」

「誘いです。君が選べるように」


雨に滲む灯が、路地の先に淡く浮かんだ。

恋という火が消えたはずの胸の奥で、まだ熱が残っている。

その熱が、次の夜を呼ぶ。


澪は傘を握り直し、静かに息を吸った。


(……逃げない。今夜は――自分で選ぶ)

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