第3話 春雨の夜、火の子が還る②
◆祟り火、月の息
夜が明けても、心は晴れなかった。
澪は部屋の中で冷めた紅茶を見つめ、吐息を落とす。
(……あれは、嫉妬だったんだ)
認めた瞬間、胸の奥がずきりと痛む。
知らなければ、もっと穏やかでいられたのに。
知ってしまった。
自分の中に、誰かを欲しがる熱があることを。
窓の外では春雨が静かに屋根を打っていた。
音がやさしすぎて、余計に胸が痛い。
◆
夕刻。
学校帰りの空は、桜の花びらを散らしながら、
茜から群青へとゆるやかに溶けていく。
澪は傘を片手に、雨上がりの道を歩いていた。
濡れたアスファルトの匂い。
春の湿った風。
遠くで子どもたちの笑い声。
京都の町はいつもの夕暮れ――のはずだった。
けれど、空気がふいに変わる。
風が止み、音が消えた。
街の呼吸が、一瞬で凍りついたみたいに。
次の瞬間、焦げた匂いが鼻を刺す。
「……この匂い……!」
同時に、手首の奥がちり、と熱を持った。
契約の印が危険を告げるように脈打つ。
――それだけじゃない。
喉の奥に、名前が“通る”感覚が生まれる。
(……繋がってる。偃月さんに)
通りの奥。
狭い路地の暗がりに、淡い光が揺れていた。
炎ではない。けれど確かに、熱を持っている。
「……火月ちゃん?」
呼びかけに応えるように、光は人の形をとる。
緋色の髪は煤け、揺らめく焔の中で踊っていた。
紅く濁った瞳が、恐怖と痛みに震えている。
「……助けてっ! 止まらないの……! また、燃えちゃう……!」
腕から黒い炎が噴き出した。
それは火ではない。
呪いそのもの。
触れた空気を焼き、夜気を歪ませる“祟り火”だ。
澪は反射で駆け出そうとした。
けれど熱に押し返され、足が止まる。
髪先がちり、と焦げる匂いがして、息を呑んだ。
(近づけない……!)
――それでも。
澪は鞄の中の数珠を握った。
祖母の声が、胸の奥で蘇る。
泣かなくていいように。隠してくれるように。
(泣かない。今は、泣かない)
震える指で数珠を締め、熱の境界へ一歩踏み込む。
火月の視線が澪に向いた。
助けを求める目。
澪は喉を焼く熱を堪えて叫ぶ。
「火月ちゃん、息して! 私を見るの、私に――戻って!」
その瞬間、月紋が痛いほど熱く脈動した。
澪の“呼びかけ”が、契約の糸を伝って走る。
(偃月さん――!)
返事は、すぐだった。
「――下がりなさい、澪」
低く、確かな声。
月光が裂けた。
銀の髪が春風に舞い、闇の中に偃月が立つ。
黒衣の裾が揺れ、金の瞳が紅の焔を見据えた。
「……祟り火の疼き。長く抑えていたが、もう限界のようですね」
その声は冷静でありながら、どこか痛みを帯びていた。
澪は息を飲む。
「偃月さん、助けて……!」
偃月は静かに頷いた。
けれどその瞳に一瞬だけ迷いが宿る。
火月ではなく――澪の胸の痛みを知っているからの迷いだった。
「ええ……彼女の炎は、“祈り”と“罪”の両方を覚えている。
記憶が疼けば、火は戻る。――そして今は、戻りすぎている」
偃月は一呼吸、言葉を落とす。
「……だから、今夜で終わらせる」
月光が偃月の掌に集まり、白い紋が浮かび上がる。
春風が逆巻き、空気がひと息に冷える。
世界が、ひとつの祈りに耳を澄ますように――夜が息をひそめた。
「――
低く詠う声が、静かな闇を震わせる。
月を以て火を鎮め、
火を以て心を照らす。
焦がれの果てに残るは、
なお灯る、生の焔――。
言葉が紡がれるたび、光が輪を描いた。
白い光が火月の身体を包み、黒い炎が音もなくほどけていく。
火月の肩が、小さく震える。
苦しみが薄れていくのが、見てわかるほどだった。
火月の頬に淡い桜色が差した。
瞳には恐怖よりも安らぎが宿る。
「……ありがとう。最後に会えて、よかった」
偃月はその言葉を、胸の奥で受け止めるように頷いた。
「ええ。私も、あなたを忘れません」
火月の唇が微かに震える。
声は風よりも弱く、春の花びらみたいに儚い。
「最後にひとつだけ……お願いしても、いい?」
「――どうぞ」
「あなたの……唇を、ください」
その一言が、夜を止めた。
澪の心臓が跳ねる。
止めたい。
――違う。止めたいんじゃない。
自分が壊れそうで、怖い。
「待って」と言いかけて喉が塞がった。
足も一歩踏み出したのに、熱に縫い止められたように動かない。
(……見たくないのに、目を逸らせない)
偃月は静かに目を閉じ、わずかに笑んだ。
「火の魂は、言葉だけでは鎮まりません。
――最後は“月の息”で封じる」
その言葉が、儀の宣言だった。
恋ではなく、葬送の手段。
そう理解した途端、澪の胸は逆に痛んだ。
理解は、痛みを弱めない。
偃月は火月の唇へ、そっと唇を落とした。
光が弾ける。
月光が花吹雪のように降り注ぎ、火月の輪郭が淡くほどけていく。
火月の表情が、やわらかく緩む。
次の瞬間、身体が光の粒となって崩れ――夜空へ舞い上がった。
火の粉は、散りゆく桜のように淡く、星々の涙みたいに消えていく。
そして――最後の一粒が消えたとき、匂いも、熱も、音も、すべて途切れた。
何も残らない。
残るのは、喫茶の焙煎の香りでも、祇園の雨の匂いでもない
――ただ、胸の奥に沈んだ「温かい余韻」だけ。
「……ありがとう、偃月さん」
火月の声はそれきりだった。
二度と、戻らない。完全に、消えた。
偃月は残された光を抱くように、静かに腕を広げた。
散る花を見送る母の仕草。
金の瞳が、悲しみと祈りの色で揺れていた。
美しく、そして哀しい姿だった。
澪は呆然と立ち尽くす。
風の音も、夜の匂いも、遠く霞んでいく。
恋した人が、目の前で唇を重ねた光景。
心の奥で、硝子がひび割れる音がした。
(……胸の奥が、痛い……)
芽生えた恋と、同時の失恋。
それは春の夢が燃え尽きる音だった。
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