第3話 春雨の夜、火の子が還る①


京都・祇園の夜。

雨上がりの石畳を、白い月が静かに撫でていた。

提灯の灯は濡れた路面に滲み、

この世とあの世の境を、薄い墨で引いた線みたいに描き出す。


月原澪つきはらみおは、いつもの帰り道を歩いていた。

――けれど今夜は、どこか「帰る」ではなく「導かれる」感覚がある。


春の夜気は柔らかい。どこか懐かしい匂いを含んでいる。

その匂いに触れた瞬間、手首の奥が、ちり、と熱を持った。


(……また、縁に呼ばれてる)


契約の印が薄く脈打ち、見えない糸が胸の奥を引く。

澪は息を吐き、足を止めた。

見えないふりが通じない夜がある。今夜が、まさにそれだ。


路地の先に、淡い光が浮かんでいた。

提灯でも街灯でもない。

青白く、息をするように揺れる小さな火――いや、火の玉。


「……人魂?」


声に出した途端、火の玉はふわりと形を変えた。


――少女。


緋色の長い髪が月光を受けて揺れ、

背中のあたりで尾のような光が風に踊る。

白い耳が、ぴょこんと動いた。

怖い、より先に「きれいだ」と思ってしまう。

けれど次の瞬間、鼻先を焦げた匂いが掠めた。

ほんの一瞬、消えかけの線香のように。


(……火の匂い?)


少女は澪を見上げて、笑った。

笑顔が上手すぎるのが、なぜか痛々しい。


「こんばんは、お姉さん」


背筋を撫でるような冷たい気配。

人ではない――あやかしだ。


澪は一歩だけ距離を取って、それでも逃げずに返した。


「こんばんは。あなた、あやかしなの?」


「うん。たぶんね。昔は“狐火”って呼ばれてたみたい」


少女の輪郭が、月光の中でかすかに明滅する。

安定していない。

生きている体温の代わりに、燃え残りの熱が揺れているようだった。


火月かづきって呼んで。月の火の子、って意味なんだって」


「火月……」


名を口にした瞬間、澪の手首の月紋が、ちり、と応えた。

契約が“反応”している。

まるで、この子がただの迷子ではないと告げるみたいに。


火月は澪の手首を見つめて、鼻先を少し寄せた。

匂いで確かめる仕草。


「あなた、月の匂いがする。懐かしい匂い」


その言葉に澪の胸がざわりと波立つ。

月の匂い。それは――


「……偃月さんの?」


火月は嬉しそうに頷いた。


「うん。あの人と同じ。……だから」


澪の瞳を覗き込み、火月は笑顔のまま、まるでお願いの形で言った。


「――あの人に、会わせてほしいの」


「……あの人?」


「葬送人。偃月えんげつ



澪は火月を連れて、喫茶 偃月の扉の前に立っていた。

古びた木の扉。

墨文字で刻まれた『喫茶 偃月』の看板が、月光を受けて淡く光っている。


鈴の音が鳴った。


ちりん――。


その奥から、あの声。


「いらっしゃい、澪。……おや、今日は珍しい客をお連れですね」


白銀の髪がゆるやかに揺れ、金の瞳が二人を映す。

澪は言い訳みたいに早口になる。


「路地で出会ったの。この子、偃月さんに会いたいって」


偃月の視線が火月へ移る。

一瞬だけ、懐かしさの影

――そして、その直後に、ほんのわずか“硬さ”が混じった。

煙管の火が、かすかに強く灯って、すぐに落ちる。


「……狐火、ですか」


火月はためらいなく一歩進み、偃月の前で止まる。


「……会いたかった」


次の瞬間、火月は偃月に抱きついた。

再会を待ちわびた恋人のように切実で、

熱を帯びているのに、その熱は生きた体温ではない。

消えかけの灯が最後の明るさを絞り出すみたいな抱擁だった。


偃月の指が反射みたいに火月の背を一度だけ強く抱く。

――確かめるように。

逃がさないように。

けれどすぐ、いつもの穏やかな手つきに戻った。


「おや。情熱的ですねぇ」


軽口のはずなのに、声が少し遠い。


「ずっと会いたかったの。昔、あなたに助けてもらってから――」


「……そうでしたか」


偃月は静かに火月の背を抱き寄せた。


祈るように、けれど確かに慈しむように。

その掌は、灯火を包むみたいに優しい。


澪の胸がきゅっと締めつけられる。

理由の分からない痛みが、静かに広がった。


その夜、火月は喫茶 偃月に留まることになった。

月光が差し込むカウンター席で、彼女の輪郭は淡く揺れている。

まるで――消えかけの灯火。


偃月が煙管を指先で回しながら、火月を見た。


「火月。君の炎、少し不安定ですね」


火月は笑って見せる。

けれど、その笑みの奥で、明滅が止まらない。


「うん……最近また、思い出しちゃうの。あの時のこと」


「……百年前?」


火月は頷いた。


「私は“神楽火”だった。

人の祈りを灯す炎だったのに……

ある日、人が人を焼くために私を使ったの」


焦げの匂いが、今度ははっきりと澪の鼻を刺した。

知らないはずの記憶が、香りの形で押し寄せる。


火月は小さく息を吐く。


「燃え尽きたあとも、消えたくなかった。

こんな終わり方、苦しすぎるって。

だから願ったの。

もう一度、人を温める優しい灯になりたいって」


火月の視線が、偃月へ向く。


「……その願いを叶えてくれたのが、偃月さん。あなただった」


偃月は微笑んだ。

けれどその笑みは、どこか“受け止めてはいけないもの”を

知っている笑みだった。


「それは君の魂が望んだことです。私は少し手を貸しただけですよ」


「それでも、私は……」


火月は言葉を詰まらせ、そっと偃月に近づいた。

躊躇いがない。

あるのは、燃え尽きる前の決意だけ。


「あなたに、恋をしたの」


一瞬、時が止まった。


偃月は驚いたように瞬き、それから微かに笑う。

その笑みは受け入れでも拒絶でもない。

ただ、すべてを包むように穏やかだった。


「……火月」


偃月は火月の頭に手を置いた。

指先が髪を撫でる。

炎が消える前に、そっと息を吹きかけるみたいな仕草で。


「その想い、確かに受け取りました。

けれど――炎は、月の光では生きられないんですよ」


火月は微笑み、偃月の胸の中で目を閉じた。

穏やかで、儚く、美しい表情だった。


澪はカウンターの影から、その光景を見つめていた。

胸の奥に刺さる痛みが、静かに膨らむ。


(……私、何の立場でここにいるんだろう)


客? 庇護される側?

それとも――“見せられる側”?


「にゃあ」


おぼろがそっと澪の膝に乗り、丸くなる。

小さな温もり。

澪は指先を震わせ、猫の背を撫でた。


「……ありがとう、朧」


きっと朧は知っている。

この店の空気が、いま誰にも触れられないものに満ちていることを。


澪は静かに席を立った。

踵を返す足音が、月明かりの床に小さく響く。

偃月と火月の間に、言葉のいらない世界がある。

壊したくない。


――壊したい自分がいるのが怖い。


扉を押す。

夜の風が頬を撫でる。

石畳に映る月が、滲んでいた。


それが涙なのか、雨の名残なのか――分からない。


ただひとつ。


二人の世界に居たくないと思った自分が、一番嫌だった。


――そのとき、手首の月紋が、ちり、と小さく熱を持った。

同時に、店の奥の鈴が遠くで鳴る。


ちりん。


まるで、この夜がまだ終わっていないと告げるみたいに。

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