第2話 契約の印と泣き女②
数日後。
澪は友人の頼みで、安井金毘羅宮へ向かっていた。
東山の一角。
観光の喧騒が遠のいた道を、湿った風が袖の内側まで撫でてくる。
夕刻より濃くなった空気が、肌に貼りつくようだった。
「ねぇ、澪。お願い。一緒に来て。ひとりじゃ無理……」
握られた指先から、不安がそのまま伝わってくる。
「彼の浮気癖を切りたいの。振り回されるのはもう沢山。
安井さんなら、願えば“本当に切れる”って……」
(……こんな時間に来る場所じゃない)
そう思うのに、断れない。
澪の性分が、また夜へ足を進めさせる。昔から、誰かの泣き声に弱い。
鳥居をくぐった瞬間、空気が重くなった。
そして――手首の月紋が、ちり、と熱を持つ。
(……やめてよ。今日は平穏に帰りたいのに)
境内の中央には、丸く穿たれた石碑がある。
札を持ってその穴をくぐれば、悪縁が断たれ、良縁が結ばれる
――そう言われ、祈りが集まり、願いが積もり、
そして時に、澱も溜まる場所。
風の匂いが変わった。
香の甘さの奥に、鉄の味が混じる。
“未練”が香りになって、澪の鼻腔へ流れ込んできた。
涙の塩。湿った紙。にじむ墨。
祈願札の裏に書かれた、言えなかった言葉たち。
「咲、夜の神社ってほんと危ないから。札だけ納めて帰ろう――」
その言葉の途中で、音が途絶えた。
風も、虫の声も、人の息づかいも、すべて。
しん、と世界が沈む。
境内が、ひとつの“器”になったように静まり返った。
「……澪?」
振り返った咲の瞳は、もう“咲”ではなかった。
黒いもやが身体を包み、影が肌を這う。
笑顔の輪郭が溶け、別の表情が浮かぶ。
憎しみと悲しみが、同時に滲んだ顔。
――妬ましい。妬ましい。
――幸せそうに笑って。どうして。
それは咲の声であり、幾千もの女たちの嘆きでもあった。
縁を切りに来た者たちの祈りが、叶わないまま怨へ沈み、ここに溜まっている。
澱んだ涙の集合体が、“入れ物”を探していたのだ。
(咲の中に入ってる……!)
澪が駆け寄ろうとした瞬間、冷たい何かが足首を掴んだ。
影が肌を這い、骨の奥まで冷える。
「――っ!」
怖い。
でも――助けなきゃ。
澪は奥歯を噛み、咲へ手を伸ばした。
「咲! 正気に戻って! これは咲じゃない!」
咲の手が、澪の首へ伸びる。
締めつける指が喉を潰す。息が詰まり、視界の端が暗くなる。
(やだ……!)
手首の月紋が、痛いほど熱く脈動した。
香りがさらに濃くなる。
嫉妬、執着、泣き声。呼吸より先に涙が込み上げる。
その時――風が、吹いた。
香の匂いが断たれ、空気がわずかに震える。
白銀の光が闇を裂き、影を焼いた。
「――うちのワンコに、手を出さないで頂きたいですねぇ」
低く、静かな声。
白銀の髪。金の瞳。夜を歩く葬送人――偃月。
彼が立っているだけで、境内の闇が一歩引いた。
月が雲から顔を出し、石碑の穴の縁が白く光る。
「……偃月さん!」
澪が咳き込みながら声を上げると、偃月は片目を細めて笑った。
「また危険な場所にお出ましとは……困ったワンコですねぇ」
「犬じゃないです!」
「飼い主の留守中に夜遊びとは。しつけが必要です」
「違うって言ってるでしょ!」
軽口の裏で、偃月の目は一度も冗談を言っていない。
彼は澪の首を掴む“それ”へ視線を向け、煙管の先に淡い火を灯した。
「夜の社は危険ですよ。泣き女は、涙の匂いに惹かれますから」
煙管が小さく鳴る。
ぱちん――という乾いた音が、沈黙の器に亀裂を入れた。
「彼女たちは、縁に縛られたまま泣き続けている。
想いを手放せず、涙の中で朽ちていく魂ですよ」
偃月が一歩踏み出す。影が怯む。
咲の口元が歪み、複数の声が重なって笑った。
――切れない。切れない。
――奪って。奪って。
「欲しがりですねぇ」
偃月は淡く囁いた。
「泣くなら――美しく泣きなさい。月は、醜い涙を嫌うのですよ」
次の瞬間、火が弾けた。
金色の光が輪を描き、夜空に花のように散る。
光が落ちた場所から、黒が白へほどけ、怨が薄い霧になって浮き上がった。
境内の空気が、ひとつ深呼吸をするみたいに緩む。
澪の喉の圧が解け、息が戻った。
「咲……!」
咲の身体がぐらりと揺れ、その場に崩れ落ちる。
眠るように目を閉じた。
澪が駆け寄ると、咲の呼吸は確かにある。
冷たかった指先が、少しずつ人の温度へ戻っていった。
「無事ですよ。しばらく眠るだけです」
偃月の声に頷きながら、澪は手首を押さえた。
月紋がまだ熱い。
(……守られてる。でも、匂いは拾う。……これが代償?)
◆
夜は、まだ完全には明けていなかった。
祇園の奥、喫茶偃月の扉が静かに開く。
紅茶の香りが、夜の名残をやさしく包み込んだ。
「お疲れさまでした。――初めて“泣き女”に襲われた感想は?」
「……もう、こりごりです。
契約したらあやかしに襲われないって話じゃなかったんですか?」
「ふふ。自ら危険に飛び込んでいく場合は、その限りではありませんよ」
「そんなの詐欺だー!」
「自業自得、ですね。懲りたなら、もう少し自分の足元を見なさい」
「うー……」
偃月は淡々としているのに、澪の胸にだけ妙に刺さる。
カウンターの上、琥珀色の液面に、まだ月が映っていた。
香りは深く、ほのかに甘い。
けれどどこかに――涙の匂いが混じっている。
「この紅茶、前と香りが違いますね」
「“縁結び”の茶葉ですよ。泣き女の涙を洗い流すには、ちょうどいい」
「そんな名前、本当にあるんですか?」
「もちろん。“偃月ブレンド・壱番”。恋の成就と悪縁祓いに効きます」
「絶対、いま作りましたよね」
「おや、ばれましたか。――口が減らないワンコだ」
朧が「にゃあ」と小さく鳴く。
笑っているのが分かる鳴き方だった。
澪はカップを両手で包み、熱で指先を落ち着かせながら、そっと尋ねた。
「ねぇ、偃月さん。
あなたはいつも、“誰かの縁”を見ているんですか?」
偃月は少し目を伏せ、柔らかく答える。
「ええ。私は葬送人であり、縁の記録者でもあります。
人と人、魂と魂――結び、断たれ、また巡る。
その流れを見届けるのが、私の務めです」
「……素敵だけど、寂しいお仕事ですね」
一拍の静寂。紅茶の表面に、金の灯が揺れた。
「ほう?」
偃月は片眉を上げ、少し芝居がかった仕草で笑う。
「そんなふうに言われたのは、随分と久しぶりですね」
柔らかく笑う口元と、笑っていない瞳。
そのわずかな“ずれ”が、彼の歳月の長さを語っていた。
澪は胸の奥が少し痛むのを感じた。
(……この人、どれだけの“別れ”を見てきたんだろう)
偃月は窓辺に立つ。外ではまだ夜の帳が町を包んでいる。
「京都という街は、縁でできているんですよ。
人と人、時と時。切っても切れず、結んでもほどける。
……だからこそ、美しく、そして残酷なんです」
「怖いけど……少し素敵です」
「でしょう?」
紅茶の香が深い夜に溶けていく。
――けれど澪の鼻が、ふいに“別の匂い”を拾った。
湿った紙。墨。古い香。
泣き女とは違う。
もっと乾いて、もっと遠い未練。
誰かが長い年月、抱え続けたような匂い。
澪の手首の月紋が、ちり、と小さく熱を持つ。
(……また?)
店の奥の鈴が、ひとつ鳴った。
ちりん。
朧が耳を立て、尾を二つに揺らす。
「主。……来ておりますぅ」
偃月は煙管の火を落とし、静かに言った。
「匂いを拾いましたね、澪。今夜の“縁”は、少し厄介です」
澪はカップの底を見下ろす。
金色の光を閉じ込めたような、ひとかけの月砂糖が残っていた。
それはまるで、夜と約束を結ぶ印のように――淡く揺れている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます