第2話 契約の印と泣き女①

「つまり――契約、です」


その言葉が落ちた瞬間、澪の背中を冷たいものが撫でた。

月葬の余韻で胸の奥がまだ熱いのに、

店内の空気だけが急に現実へ引き戻される。

焙煎豆の香りが遠のき、代わりに、夜そのものの匂いが立った。


「け、契約!? そんなのしなくても……誰にも言いません!」


澪が声を尖らせると、偃月えんげつは煙管を指先で転がし、

愉しげにため息をついた。


「そうおっしゃる方ほど、後で厄介になるのですよ。

人の口は、月ほど堅くありませんからねぇ」


「……失礼すぎません?」


「事実です」


腹が立つ。

けれど同時に、“怖いものに触れた”感覚が消えない。

彼の言葉は脅しの形をしているのに、

どこか淡々としていて、嘘を言っている気配がなかった。


「それに」


偃月が一歩近づく。金の瞳が、夜の底でゆるく光った。


「君は……少々、目立ちすぎる」


「目立つって……何がですか」


「魂の光です。君の光は“月明かり”が強い。

夜の迷子たちには、それがまるで帰り道に見える」


喉の奥がひりついた。路地で聞いた声が、耳の奥で蘇る。


――あたたかいの、ちょうだい。


「嫌な言い方をしますね」


「脅しではなく、忠告です。

君が嫌うなら、私は無理に縛りません」


意外なほど穏やかな声だった。

だからこそ、次の一言が、緩んだ糸を切る。


「ただし、この店を出た途端――君はまた“見つかる

”。今夜みたいなことは、繰り返すでしょう」


「……っ」


澪は唇を噛んだ。

怖い。悔しい。けれど、事実だ。

逃げたいのは偃月じゃない。

“夜”だ。夜に潜む、見えない手だ。


そのとき、奥の戸影から、ぬるりと灰色の猫が現れた。

二つに分かれた尾がふわりと揺れる。


「にゃあ。契約書でございますぅ」


「……本当に契約書!?」


猫――おぼろが咥えていた巻物を床へ落とすと、

淡い光が紙を包み、月の紋が浮かび上がった。

墨の匂いがするのに、紙は古びていない。

生まれたての夜みたいに、白い。


「内容は簡単です」


偃月は巻物を拾い、澪の前に広げた。

文字は少ない。短い。なのに、重い。


「――“君は私の庇護下に入る”。以上」


「……以上って、雑すぎません?」


「簡単なほうがいいでしょう。

条項を増やすほど、人は逃げ道を作りますから」


言い返したいのに、言い返せない。

彼の言う“逃げ道”が、今の自分そのものだと分かってしまうから。


「じゃあ、条件を付けたいです」


偃月の瞳が面白がるように細まった。

「条件交渉ですか。いいですねぇ。言ってみなさい」


澪は息を吸う。ここで黙ったら、一生黙らされる気がした。


「まず、心の中を勝手に覗かないでください。

月砂糖とか……ああいうの」


「ふむ」


「それと……私を勝手に“眷属”だの“内側”だの言わないでください。

言うなら……私が納得した時だけ」


朧が尻尾を二つに揺らし、楽しそうに鳴いた。

「主、交渉されておりますぅ」


偃月は煙管を唇に当て、少し考えるふりをする。


――ふり、だ。


彼は結論を最初から持っている。そういう顔をしていた。


「前者は受けましょう。覗くのは――君が許した時だけにします」


「本当に?」


「月に誓います」


その言葉は軽くない。澪の胸が、わずかに緩む。


「後者は?」

「……努力します」

「努力って」

「眷属であることは、事実になってしまうので」


「そこは譲らないんだ……!」


「譲りません」


即答だった。


腹が立つのに、なぜか背筋が寒くなる。


“事実になる”


と言い切る力が、彼の正体を匂わせる。

澪は頭を抱えたくなりながら、最後の条件を口にする。


「……期限。ずっとは嫌です。

私が自分で身を守れるようになったら、解除できるようにしてください」


偃月の目が、ほんのわずかに真面目になる。

金の光から、遊びが消えた。


「いいでしょう。解除の条件は――

“君が自力で守りを作れるほどに強くなること”。

その日が来たら、私が札を外す」


「約束です」


「月に誓います」


朧が巻物の端を押し出した。


「では、署名を。にゃあ」


「署名って、どうやって……」


偃月が指先を立て、澪の手首にそっと触れた。

触れた場所だけが熱を持つ。

怖いのに、嫌悪ではない。

気づけば、澪は手を引っ込められなかった。


「血は要りません。君は怖がりですからね」

「そこも失礼です」


「事実です」


偃月は煙管を軽く鳴らし、澪の指先へ淡い光を落とした。

月の香りが、ひとかけ溶けるみたいにふわりと広がる。


「君の言葉で。――“庇護を望む”と」


澪の唇が震えた。

怖い。悔しい。

けれど、選ぶなら今しかない。

これ以上、夜に追いかけられたくない。


「……庇護を、望みます」


その瞬間、巻物の月紋がぱっと灯った。

白銀の光が糸となって澪の手首へ絡み、肌の奥へ静かに沈み込んでいく。


「わ……!」


手首に淡い月の紋。

鼓動と同じリズムで脈動している。

痛みではない。

けれど“刻まれた”と分かる感覚だった。


偃月が一歩近づく。

金の瞳が、月光を閉じ込めたように輝く。


「これで君は、私の庇護下にある」

「……ほんとに、やっちゃった……」

「大丈夫。君に不利益はない。――今のところは」


「今のところって何!?」


偃月はくすりと笑い、澪の手首の月紋を指先で軽く撫でた。

触れ方が優しい。

だからこそ怖い。

澪の身体の奥で、何かの扉が軋む音がした気がした。


「合意の上です。君は言いましたからね。“望む”と」


朧が尻尾を二つに揺らして鳴いた。

「にゃあ。契約、成立でございますぅ」


偃月は夜の底で微笑んだ。


「ようこそ。月の下へ」


その瞬間、澪の手首の月紋が――ちり、と熱を持った。

痛みではない。

けれど、身体の内側が“夜に馴染む”ような、危うい感覚。


(……印が馴染んでる? それとも――私のほうが、変わりはじめてる?)

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