第1話  月の加護が切れる夜②


 店の奥で、鈴がひとつ鳴った。

 やわらかな余韻が消える前に、偃月の金の瞳がわずかに細まる。

 空気が“切り替わる”のが、澪にもわかった。


 その合図みたいに、灰色の猫がひょっこりカウンターの下から姿を現す。

 小柄で、毛並みは月明かりに溶けるように柔らかい。

 ――けれど目だけが、不自然なほど鋭い金色だった。


「偃月様。葬送の時間ですぅ」


「……あぁ、そうでしたね」


 偃月は煙管を軽く鳴らし、ゆるやかに立ち上がった。

 その仕草ひとつで、喫茶の温度が舞台の幕間みたいに変わる。

 珈琲の香ばしさが退き、澄んだ冷気が店の奥から滲み出した。

 現世と彼岸の境目が、この店のどこかに開く――そんな感覚。


 澪はカップを置いた。喉が乾いているのに、言葉が先に出る。


「お仕事ですか?」


「ええ。本業の、ね」


 偃月は奥の格子戸の前に立つ。

 取っ手には月を模した真鍮の装飾。

 触れた指先から、ほのかな光が滲んだ。


「……ここから先は、客人の立ち入りはご遠慮いただいています」


「立ち入り……その奥、中庭でしたよね」


 口にしてから、澪は自分に驚いた。

 怖さより、好奇心が勝っている。

“見えないふりで帰る”

 はずだったのに――ここまで来てしまった。


 偃月はくすりと笑い、片目を細める。


「目に見えるものが、すべて正しいとは限りませんよ。

 覗くなら、覚悟を」


 扉が開いた。音はしない。

 けれど空気だけが、確かに震えた。


 そこにあったのは庭ではなかった。

 庭石も塀も輪郭を失い、月光だけが満ちている。

 白銀の海が、静かに揺れていた。

 波の音もないのに、視界の奥で波が立つ。

 ――光そのものが、流体になっている。


「……月光の海……?」


「ああ。やはり見えるんですねぇ」


 偃月は澪を一瞥し、淡く笑う。


「では特別に――その目で、見ていなさい」


 月光が舞う。

 偃月がその中心に立つと、白銀の髪がほどけ、

 黒衣の裾が波のように揺れた。

 彼はゆるやかに両手を組み、低く詠い始める。


「月影渡りて、穢れを祓え。

 迷いしものを、夜の涯へ。

 光よ鎮めよ、涙の海を。

 いざ還れ、白き露――その魂、月の懐へ」


 言葉が空気を震わせ、光を呼ぶ。

 地に白い紋が浮かび、そこから淡い霧が立ちのぼった。


 霧は形をとり、ひとりの女性の姿を映し出す。

 閉じた瞳。白い着物。肩に宿る月の欠片。

 生きた人の温度がないのに、やけに静かで、きれいだった。


(……この人、死んでる……?)


 怖い、と思うより先に胸の奥が痛んだ。

 光が魂を包むたび、澪の鼻腔に“懐かしい香り”が滲む。

 椿、濡れた土、薄い線香。

 知らないはずの人生が、匂いになって押し寄せる。

 思い出せないのに泣きたくなる。

 澪の中の何かが、勝手に共鳴していく。


 足元で、猫が小さく息を吐いた。


「これが偃月様の“月葬”の儀ですぅ」


 澪は視線を落として、固まる。


「……猫? しゃべるの?」


「猫又ですぅ。名はおぼろ。主のしきです」


 猫は尻尾を揺らした。尾の先が、二つに分かれている。


「式……?」


「主が儀を誰かに見せるのは珍しいのです。

 まぁ――思惑があるんでしょうねぇ」


 朧の言い方は軽い。けれど目は笑っていない。

 澪は背筋を正し、偃月から目を離さないようにした。

 ここで目を逸らしたら、何かを“持っていかれる”気がする。


 偃月の詠唱が高まりを見せる。


「願わくば、月よ――彼方へ導け。

 闇を裂き、光を紡ぎ、穢れを浄めよ」


 その瞬間。

 女性の魂が、微かに笑った。

 白い花弁みたいな光が散り、夜空へ昇っていく。

 海だった月光が、ゆっくり凪いでいく。


 涙が頬を伝った。

 理由はわからない。ただ、美しかった。

 怖いのに――あたたかい。

 死というものが、こんなにも静かに人を包むことがあるのだと、

 澪は初めて知った。


「――送葬、完了」


 偃月の声で、世界が息を吹き返す。

 風が通り、月光がやわらいだ。

 白い霧の名残は空に溶け、喫茶の奥に“現実”の輪郭が戻ってくる。


 澪は自分の鼓動が痛いほど鳴っていることに気づいた。

 手のひらが湿っている。

 怖かった。

 けれど――それ以上に、心が揺さぶられている。


「……偃月さんのお仕事って……」


 偃月は煙管を指先で転がし、静かな笑みを浮かべた。


「私は葬送人そうそうにん

 迷えるものを送り、残されたものを繋ぎとめる。

 ――それが、私の務めです」


「……だから、あの人を」


「ええ。あれが彼女の最期でした。泣くでもなく、怨むでもなく。

 ――ただ、還る。それが“理想”というものです」


 その言葉が、澪の胸をひりつかせた。

 救われるようで、置いていかれるようで、わからない温もりが残る。


 偃月は芝居の幕が下りたあとの役者みたいに、艶やかに息を吐く。


「さて――困りましたねぇ」


 澪は身構える。

「……な、何がですか?」


 偃月は澪へ一歩近づいた。

 距離が詰まるだけで、空気が甘くなる。

 囁く声は低く、やさしいのに逃げ道を塞ぐ響きがあった。


「葬送の儀を“見て”しまいましたから」

「えっ、でも……見ていいって言いましたよね!?」


「ええ、確かに。けれど“見た”ということは、“知った”ということ。

 そして“知った”のなら――責任が生じるのです。世の理として」


「責任って……何の話ですか!?」


 偃月は微笑んだまま、澪の耳元へ言葉を落とす。


「つまり――契約、です」


 鈴が、もう一度どこかで鳴った。

 喫茶の温度が、静かに下がっていく。


 澪の手首の数珠が、月光を拾って淡く光った。

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