『喫茶偃月 ―月の痕と、忘れた客人―』

白玉蓮

『喫茶偃月 ―月の痕と、忘れた客人―』

第1話  月の加護が切れる夜①

 夜の京都は、昼より息が長い。

 人の気配が消えても、石畳の上にはまだ音が残っている。下駄の音、遠くの三味線、提灯を揺らすかすかな風――どれも古い時の名残のようだった。


 月原澪つきはらみおは鞄を抱え、祇園四条から一本外れた細い路地を歩いていた。

(今日は、見えないふりで帰る)

 そう決めているのに、胸の奥がざわつく。夜の京都には、昼にはない“気配”がある。


「……寒っ……」


 吐く息が白く散った。夕方の雨が石畳に残り、そこへ月の光が流れ込む。濡れた石は鏡のように輝き、夜を映している――美しいのに、どこか怖い。


(……誰か、いる)


 頬を撫でた風が、ただの風じゃない。

 まるで“意思”のある手みたいに、髪をすくい、首筋をなぞった。


(見られてる……?)


 幼い頃から澪には“見えてしまう”ものがあった。人ではないのに人の形をした、こちらを覗き込む何か。

 そしてもうひとつ。澪は時々、他人の未練を“香り”として吸い込んでしまう。甘い線香、湿った土、古い椿――理由もなく涙が出る夜がある。


(怖がったら寄ってくる。平気。落ち着け……)


 そう言い聞かせて歩を速めた、そのとき。


 ぷつり――。


 手首で乾いた音がした。

 見下ろすと、数珠がほどけていた。月光を拾いながら、小さな珠がころころと転がっていく。


「……うそ、待って……!」


 澪はしゃがみ込み、濡れた石畳に手を伸ばす。

 珠のひとつが震え、まるで何かを吸い込むように光を呑みこんだ。


 胸の奥に、祖母の声が蘇る。


『これは“月の加護”を宿した数珠や。

 澪が泣かんでええように、あやかしから隠してくれるんやよ』


(おばあちゃん……守って)


 指先が震える。

 その瞬間、風が止んだ。


 提灯の灯が――“しゅ”と音を立てて消えた。

 世界が息をひとつ忘れたような静寂に沈む。


(……来る)


 路地の奥から、濃い影が覗いていた。

 人のようで、人ではない。輪郭が溶け、顔がないのに――確かに“見ている”。


 ――あたたかいの、ちょうだい。


 頭の奥に、泣くみたいな声が落ちてきた。

 次の瞬間、その声は濁った欲に変わり、背中にまとわりつく。


 澪の喉が、ひゅ、と鳴った。


「……やめて!」


 影が伸び、澪の足を掠めた。

 冷たい指がふくらはぎに触れた瞬間、息が詰まる。皮膚の上を“冬”が這うみたいに、冷えが染み込んでくる。


(怖い――!)


 澪は珠を掴み、立ち上がった。逃げるためじゃない。

(ここを抜ければ、明るい通りに出る)

 自分に言い聞かせ、走った。


 石畳を叩く足音が闇を裂く。

 けれど、影は追ってくる。


 ――あたたかい、ひかり。

 ――あなたの、それがほしい。


 声が背中に絡みつく。

 足がもつれ、澪は石畳に倒れ込んだ。


(誰か……助けて……!)


 涙が滲む視界の中で、月の光が揺れた。

 そのとき――


「夜道を独りで歩くのは、危ないですよ。……月が泣いてしまう」


 低く、穏やかな声。

 その声が夜を裂いた瞬間、白銀の光が世界を満たした。


 影は悲鳴を上げ、霧のように散った。

 残ったのは、冷たい月と――彼。


 腰まで届く白銀の髪。

 夜を映すような金の瞳。

 黒いシャツの襟元に覗く白い肌。


「……おや。泣き顔のままでは、月に嫌われますよ」


 声はやさしいのに、どこか愉快そうだった。

 彼は煙管を軽く払う。金の火花が散り、闇の残滓をぱちりと弾き消す。


「怖かったでしょう。もう大丈夫。夜は、私の領分です」


(領分……? この人、何者……?)


 澪は息を呑み、口を開いた。


「……あなたは?」


「ああ、ただの通りすがりの――喫茶店主ですよ。偃月えんげつと申します」


 その名を口にした瞬間、彼の背後にいつの間にか扉があった。

 古い格子戸に、墨で書かれた文字。


 ――喫茶 偃月


 灯のない路地にぽつりと浮かぶその扉は、まるで月が地上に落ちたかのように白く光っていた。


「今夜は冷えますね。少し温まっていきなさい」


 命令じゃない。“誘い”の響き。

 胸の奥で警鐘が鳴るのに、足はもう動いていた。


 扉を押すと、やわらかな音が鳴った。

 一歩踏み入れた瞬間、外の音が消える。


 焙煎豆の香り。微かな木の匂い。どこか懐かしい温度。

(……こんな場所、あったかな)


「どうぞ」


 偃月は舞うように椅子を引いた。所作の一つひとつが、儀式みたいに美しい。


 カウンターの奥で湯の音が立つ。

 金属のポットが傾き、珈琲が落ちる音は、祈りの拍子のように静かだった。


「お砂糖は?」


「あっ……じゃあ、少しだけ」


「“少しだけ”――曖昧な言葉ですねぇ。月に量ってもらいましょうか」


 差し出されたのは、月の形をした砂糖壺。

 中には星屑みたいな角砂糖が並んでいる。


「ひとつ、ふたつ……どちらに?」

「じゃ、ひとつで」

「はい。――月ひと欠片分ですね」


 角砂糖が落ち、珈琲の表面が波打った。


「……これ、普通の砂糖じゃないですよね」

「察しがいい。これは“月砂糖”。心の音を、少しだけ透かしてくれる」


「心の……音?」

「飲んでみれば、わかりますよ」


 澪は恐る恐るカップを口に運んだ。

 ――甘い。けれど、懐かしい。胸の奥がふっと温かくなる。


(……おばあちゃんの匂いがする)


「“おばあさまの香り”、そう思いましたね」


「っ!? なんで……!」


 偃月が、くすりと笑った。


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