第5話 本物の夫の精神崩壊
1
美咲への復讐が終わった翌週。
蓮は彰の会社に向かった。
もちろん、完璧に「神谷彰」として。
社員証、指紋、声紋――全てが本物と同じだ。
「おはようございます、神谷さん」
同僚たちが挨拶する。
誰も、疑わない。
蓮は彰のデスクに座り、PCを立ち上げた。
そして、ある計画を実行に移す。
2
その日の午後、重要な会議が開かれた。
大手クライアント向けの新規プロジェクトの最終プレゼンだった。
蓮は「彰」として、プレゼンターの一人に選ばれていた。
「では、神谷から説明させていただきます」
上司が蓮を紹介した。
蓮は立ち上がり、スクリーンの前に立つ。
「本日は、弊社の新サービスについてご説明します」
蓮の声は、完璧に彰のものだった。
プレゼンは順調に進んだ。
だが――。
「最後に、導入実績についてご紹介します」
蓮がスクリーンに資料を映し出した瞬間。
会議室の空気が凍りついた。
スクリーンに映し出されたのは、顧客リストではなかった。
それは、クライアントの社内機密文書だった。
しかも、個人情報が含まれている文書。
「神谷!何を出してるんだ!」
上司が叫んだ。
クライアント側の役員が立ち上がる。
「これは……我が社の機密文書ではないか!」
「申し訳ございません!」
上司が頭を下げた。
だが、クライアントの怒りは収まらない。
「どうやって入手したんだ!情報漏洩か!」
「違います!これは、手違いで……」
会議室は混乱に陥った。
蓮は、ただ立ち尽くしていた。
彰の困惑した表情で。
3
会議の後、蓮は上司に呼び出された。
会議室には、人事部長も同席していた。
「神谷、説明してもらおうか」
上司の声は、怒りで震えていた。
「あの文書、どこで入手した?」
「私は……知りません」
蓮は彰の声で答えた。
「あの資料は、プレゼン用のフォルダに入っていたもので……」
「君が作ったフォルダだろう!」
上司が机を叩いた。
「しかも、セキュリティログを確認したら、先週の夜中に君のPCから、あのクライアントのサーバーにアクセスした記録がある」
「そんな……」
蓮の顔が、驚愕に歪む。完璧な演技だった。
「私は、そんなことしていません!」
「じゃあ誰がやったんだ?」
人事部長が冷たく言った。
「君のIDで、君のPCから、君の指紋認証でログインしている」
蓮は黙り込んだ。
「それだけじゃない」
人事部長がタブレットを差し出した。
そこには、一通のメールが表示されていた。
送信者:神谷彰
件名:相談
本文:『部長、神谷さんが最近おかしいんです。私に体の関係を迫ってきて……断ったら、プロジェクトから外すと脅されました。どうしたらいいでしょうか』
「これは……」
蓮の目が見開かれる。
「営業部の若手女性社員から、社内の相談窓口に届いたメールだ」
人事部長の声が、さらに冷たくなった。
「君は、部下にセクハラをしていたのか?」
「してません!」
蓮が叫んだ。
「これは、誰かが私を陥れようと……」
「誰が?」
上司が鋭く聞いた。
「君には、そんなことをする理由のある人間がいるのか?」
蓮は答えられなかった。
なぜなら、本物の彰にはいないからだ。
「神谷」
人事部長が立ち上がった。
「情報漏洩とセクハラ。二つの重大な規律違反だ」
「違います……」
「君を、懲戒解雇とする」
その言葉が、会議室に響いた。
蓮は――いや、「彰」は、その場に崩れ落ちた。
4
その夜。
本物の彰が、会社から電話を受けた。
「神谷さん、今日は会社に来られましたか?」
人事部からの電話だった。
「え?今日は在宅勤務の予定でしたが……」
「では、今日の午後、会社にいたのは?」
「誰ですか?」
彰の心臓が跳ねた。
まさか――。
「分かりました。後日、改めてご連絡します」
電話が切れた。
彰は震える手でスマホを握りしめた。
また、蓮が――。
彰は急いで会社に電話をかけた。
だが、繋がらない。
既に業務時間外だった。
彰は絶望に沈んだ。
また、あいつが俺の人生を壊した。
5
翌朝。
彰が会社に着くと、人事部に直行するよう指示された。
「神谷さん、昨日は何があったんですか」
人事部長が厳しい顔で聞いた。
「私は昨日、会社には来ていません」
「では、これは?」
人事部長が監視カメラの映像を見せた。
そこには、「神谷彰」がオフィスに入り、会議に出席し、プレゼンをしている姿が映っていた。
「これは……俺じゃない……」
彰の声が掠れた。
「誰かが、俺に成りすまして……」
「神谷さん」
人事部長が立ち上がった。
「正直に話してください。心の病気なら、診断書を出せば休職扱いにできます」
「病気じゃない!」
彰が叫んだ。
「あれは、俺じゃないんだ!誰かが俺のフリをして……」
「それなら、誰がそんなことを?」
人事部長の目には、既に憐れみの色が浮かんでいた。
彰は、何も言えなかった。
言えるはずがない。
「妻が、俺にそっくりな男を雇って、復讐している」
そんなことを言ったら、本当に精神病院送りだ。
「神谷さん、しばらく休んでください」
人事部長が書類を差し出した。
それは、退職勧奨の書類だった。
「サインしてください。円満退職の形にします」
彰の手が震えた。
だが、選択肢はなかった。
彰はペンを握り、自分の名前を書いた。
神谷彰――。
その瞬間、彰は気づいた。
この署名は、本当に「俺」のものなのか?
それとも、もう俺は「神谷彰」じゃないのか?
6
会社を出た彰は、放心状態で帰宅した。
家に着くと、リビングから笑い声が聞こえた。
真由の声。
そして、もう一つの声――俺の声。
彰は玄関で立ち止まった。
そっと、リビングを覗く。
そこには、蓮と真由がソファに座っていた。
二人は、幸せそうに笑っていた。
「今日は、本当に疲れたよ」
蓮が、彰の声で言った。
「お疲れ様」
真由が蓮の肩に頭を預ける。
「今日は、何があったの?」
「新しいプロジェクトが決まりそうなんだ。昇進も近いかもしれない」
蓮の言葉に、真由が微笑んだ。
「すごい!おめでとう、彰さん」
彰さん――。
妻が、偽物を「彰さん」と呼んでいる。
彰の手が、壁に触れた。
冷たい。
現実なのか、悪夢なのか、もう分からない。
彰は静かに階段を上がった。
二階の、かつて夫婦の寝室だった部屋。
今は、彰だけが使っている部屋。
彰は洗面所に入り、鏡を見た。
そこには、神谷彰の顔があった。
だが――。
これは、本当に俺なのか?
彰は鏡に手を伸ばした。
鏡の中の男も、手を伸ばす。
同じ顔。
同じ動き。
でも、どこか違う気がする。
その時、背後に人の気配を感じた。
振り返ると――。
蓮が立っていた。
全く同じ顔で。
「こんばんは、彰さん」
蓮が、彰の笑い方で笑った。
彰は、声も出なかった。
二人は、鏡の前で向かい合った。
鏡には、二人の「神谷彰」が映っている。
「どちらが本物か、分かりますか?」
蓮が囁いた。
「俺は……俺だ……」
彰の声が震える。
「そうですか。でも、真由さんは僕を選びました」
蓮が一歩近づく。
「会社も、僕を信じています」
もう一歩。
「社会は、僕を『神谷彰』として認めています」
蓮が彰の肩に手を置いた。
「では、あなたは誰ですか?」
その問いに、彰は答えられなかった。
俺は、誰だ――?
彰は鏡を見つめた。
そこに映る二つの顔。
どちらが本物で、どちらが偽物なのか。
もう、区別がつかなかった。
7
その夜、彰は部屋に閉じこもった。
下の階からは、真由と蓮の笑い声が聞こえてくる。
夕食の匂い。
幸せな家庭の音。
かつて、俺がいた場所。
彰は窓から外を見た。
隣の家では、家族が食卓を囲んでいる。
普通の、幸せな光景。
俺にも、あったはずだ。
完璧な妻。
安定した仕事。
社会的地位。
でも、今は――。
何もない。
彰は鏡をもう一度見た。
そこには、やつれた男の顔があった。
これが、神谷彰。
でも、本当にそうなのか?
もしかして、俺の方が――。
偽物なんじゃないのか?
その時、ドアがノックされた。
「彰さん、夕飯よ」
真由の声だった。
だが、彰は答えなかった。
答えられなかった。
自分が誰なのか、もう分からないから。
階段を降りる音が遠ざかっていく。
そして、リビングから聞こえる声。
「彼、部屋から出てこないの?」
蓮の声。
「ええ……でも、もう関係ないわ」
真由の声。
「私たちには、これからがあるもの」
それを聞いた瞬間、彰の中で何かが完全に壊れた。
彰は床に座り込んだ。
そして、呟いた。
「俺は……誰だ……」
暗闇の中、その問いに答える者は誰もいなかった。
――第5話 了――
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