第6話 完璧なすり替え
1
会社を解雇された彰から一週間後。
蓮と真由は、都心の法律事務所にいた。
「神谷様、お待ちしておりました」
初老の弁護士が、二人を応接室に案内した。
「離婚協議の件ですね」
弁護士が書類を広げた。
「財産分与、慰謝料、すべて奥様の要求通りでよろしいですか?」
蓮は――「彰」として、頷いた。
「はい。妻には、全てを渡します」
弁護士が驚いたような顔をした。
「全て、とは?」
「預金、不動産、株式……全部です」
蓮の声は、穏やかだった。
「私が悪かった。これは、当然の償いです」
弁護士は真由を見た。
「奥様、本当によろしいんですか?」
真由は静かに頷いた。
「ええ。夫がそう望むなら」
「分かりました」
弁護士が離婚届を取り出した。
「では、こちらにサインを」
蓮はペンを手に取り、淀みなくサインした。
筆跡は、完璧に彰のものだった。
「これで、正式に離婚が成立します」
弁護士が書類を確認した。
「神谷様、新しい人生の門出ですね」
蓮は微笑んだ。
彰の微笑みで。
2
法律事務所を出ると、真由が深呼吸をした。
「これで……本当に、自由?」
「ええ」
蓮が真由の手を取った。
「あなたは、もう彼の妻じゃない」
その言葉が、真由の胸に響いた。
自由。
十年ぶりの、本当の自由。
「でも――」
真由が蓮を見上げた。
「これから、どうするの?戸籍は……」
「心配いりません」
蓮は真由を路地裏へと導いた。
そして、一軒の古びた雑居ビルの前で足を止めた。
「ここで?」
「ええ。ここで、僕は本当の『神谷彰』になります」
3
エレベーターで三階まで上がると、そこには看板のないドアがあった。
蓮がノックすると、ドアが開いた。
中には、スーツ姿の中年男性が立っていた。
「お待ちしておりました、蓮さん」
男は蓮を部屋の奥へ案内した。
真由も、その後についていく。
部屋の中央には、大きな机があった。
机の上には、様々な書類が並べられている。
「これが、新しい戸籍謄本です」
男が一枚の書類を差し出した。
そこには、「神谷彰」の名前が印刷されていた。
だが、本籍地も、親の名前も、全てが本物とは違っていた。
「完全な別人として登録されています」
男が説明した。
「住民票、健康保険証、免許証……全て、この戸籍で作成できます」
「本物の彰は?」
真由が尋ねた。
男は別の書類を取り出した。
「こちらです」
そこには、「山田太郎」という名前が書かれていた。
生年月日も、本籍地も、全く違う人物。
「本物の神谷彰さんには、この新しい身分を使っていただきます」
「彼は……同意するの?」
「しなくても、問題ありません」
男は冷たく言った。
「既に、元の戸籍は削除されています。彼が何を主張しても、証明する術はありません」
真由の背筋に、冷たいものが走った。
これは、本当に――。
人を、社会から消すということ。
4
その夜、蓮と真由は自宅に戻った。
いや、もう真由の家ではない。
蓮の家だ。
「彰さん、いるの?」
真由がリビングに声をかけた。
だが、返事はない。
二階の部屋を見ると、彰が床に座り込んでいた。
放心状態で。
「彰さん」
真由が声をかけると、彰がゆっくりと顔を上げた。
その目は、もう焦点が合っていなかった。
「真由……」
掠れた声。
「俺は……俺は誰だ……」
真由は何も答えられなかった。
その時、蓮が部屋に入ってきた。
そして、彰の前に封筒を置いた。
「これが、あなたの新しい人生です」
封筒の中身を見ると、そこには――。
戸籍謄本。
健康保険証。
住民票。
そして、現金100万円。
すべて、「山田太郎」名義のものだった。
「嘘だ……」
彰が震える手で書類を掴んだ。
「俺は神谷彰だ!」
「違います」
蓮が冷たく言った。
「神谷彰は、僕です」
蓮が自分の財布から免許証を取り出した。
そこには、蓮の顔写真と共に、「神谷彰」の名前が印刷されていた。
「こちらが、本物の神谷彰の免許証です」
彰は、言葉を失った。
「そんな……こんなの……」
「これが現実です」
蓮は彰の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、今日から山田太郎として生きてください」
「ふざけるな!」
彰が蓮の胸倉を掴もうとした。
だが、力が入らない。
もう、抵抗する気力さえ残っていなかった。
「お願いだ……返してくれ……」
彰の目から、涙が零れた。
「俺の名前を……俺の人生を……」
「それは、もう僕のものです」
蓮は立ち上がった。
「明日の朝までに、この家を出てください」
5
翌朝。
彰は、段ボール一つを持って玄関に立っていた。
その中には、わずかな衣服と、新しい戸籍、そして100万円が入っていた。
それだけが、彰に残されたもの。
真由が、玄関まで見送りに来た。
「……さようなら」
真由の声は、感情を欠いていた。
「もう二度と、私たちの前に現れないで」
「真由……」
彰が手を伸ばした。
だが、真由は後ずさった。
そして、蓮の腕を取った。
その瞬間、彰は悟った。
もう、彼女は戻らない。
十年間、共に過ごした妻は、もう別の男のものだ。
しかも、その男は――俺の顔をしている。
「行って」
真由が冷たく言った。
「どこへでも」
彰は何も言えなかった。
ただ、段ボールを抱えて、玄関を出た。
ドアが閉まる音が、背後で響いた。
バタン――。
その音が、彰の人生の終わりを告げていた。
彰は振り返らずに、歩き出した。
どこへ行くのか、分からない。
誰に会うのか、分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
自分は、もう神谷彰ではない。
6
窓から、彰の去る姿を見つめる真由。
その背中は、どんどん小さくなっていく。
やがて、角を曲がって見えなくなった。
「行ったわね」
蓮が真由の肩に手を置いた。
「ええ……」
真由は窓から目を離した。
そして、自分の胸に手を当てる。
罪悪感は、あるだろうか。
後悔は、あるだろうか。
真由は、自分の心を探った。
だが――。
何もなかった。
あるのは、ただ――。
解放感。
重い鎖が外れたような、自由の感覚。
「私は……間違ったことをしたのかしら」
真由が呟いた。
蓮が真由を抱き寄せる。
「いいえ」
蓮の声は、優しかった。
「あなたは、自分を取り戻しただけです」
その言葉に、真由は目を閉じた。
そうだ。
私は、取り戻したのだ。
彼に奪われた、十年間の人生を。
彼に踏みにじられた、尊厳を。
そして――。
愛される権利を。
たとえそれが、偽物の愛だとしても。
7
その夜、蓮と真由は二人でワインを飲んだ。
「乾杯」
グラスが触れ合う、澄んだ音。
「これから、どうするの?」
真由が尋ねた。
「普通に、暮らします」
蓮が答えた。
「僕は神谷彰として、会社で働く。あなたは、僕の妻として」
「それだけ?」
「ええ。それだけです」
蓮はワインを一口飲んだ。
「誰も、僕たちの秘密を知りません」
蓮が真由の手を取った。
「僕たちは、完璧な夫婦です」
その言葉が、真由の心に染み込んだ。
完璧な夫婦。
そう、外から見れば、私たちは理想の夫婦なのだ。
誰も知らない。
夫が偽物だということを。
妻が共犯者だということを。
そして、本物の夫が消されたということを。
「ねえ、蓮」
真由が蓮を見つめた。
「あなたは、私を愛してる?」
その問いに、蓮は少し考えた。
そして、答えた。
「分かりません」
真由は驚かなかった。
むしろ、その正直さが心地よかった。
「でも――」
蓮が真由の頬に触れた。
「あなたを手放したくないのは、確かです」
それで十分だった。
愛という言葉より、ずっと真実味があった。
真由は蓮の胸に顔を埋めた。
「これから、よろしくね」
「ええ。これから」
二人は、そのまま抱き合っていた。
窓の外では、街の灯りが輝いていた。
どこかで、元・神谷彰が一人、暗闇の中を歩いているかもしれない。
だが、もう関係なかった。
彼は、この世界から消えたのだから。
そして、新しい「神谷彰」が、ここに生まれたのだから。
――第6話 了――
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