第4話 美咲への社会的処刑
1
彰が美咲と初めて会った場所は、会社近くのファミレスだった。
一方、蓮が美咲を誘ったのは、都心の高層ビル52階にあるフレンチレストランだった。
「彰さん……こんな場所、初めて……」
美咲は窓際の個室で、夜景を見つめながら声を震わせた。
蓮は彰の微笑みで答えた。
「君にふさわしい場所だよ。今まで、こういう場所に連れてこられなくてごめん」
本物の彰は、一度もそんなことを言わなかった。
ホテルは常にビジネスホテル。食事は立ち食いそば。デートと呼べるものなど、一度もなかった。
「決めたんだ、美咲」
蓮が美咲の手を取った。
「真由と、正式に別れる。離婚届は弁護士に渡した」
「……本当?」
美咲の目に、涙が浮かんだ。
「本当だよ」
蓮はポケットから小さな箱を取り出した。
ティファニーのブルーボックス。
美咲の息が止まる。
「美咲。僕と、結婚してくれないか」
箱を開けると、そこにはダイヤモンドの指輪が輝いていた。
本物の彰は、美咲にプレゼント一つ贈ったことがなかった。クリスマスも、誕生日も、常に「今は余裕がない」と言い訳していた。
「彰さん……」
美咲は両手で口を押さえた。涙が頬を伝う。
「返事を聞かせてくれ」
蓮が膝をついた。
レストランの他の客たちが、振り向いてささやき始める。
「結婚します!」
美咲は叫んだ。
蓮が指輪を美咲の薬指にはめる。
そして、キスをした。
優しく、深く。本物の彰が一度もしなかった、愛情に満ちたキスを。
美咲の心は、歓喜に満たされていた。
ついに、私が勝ったのだ。
あの地味な妻から、彰さんを奪ったのだ。
2
レストランを出ると、蓮が美咲の肩を抱いた。
「美咲、話があるんだ」
「何?」
「離婚には、予想以上に金がかかる」
蓮の表情が曇る。
「真由は、慰謝料と財産分与で3000万を要求している。弁護士費用も含めると……」
美咲の笑顔が凍りつく。
「そんなに……」
「ああ。でも、君のために何とかする」
蓮が美咲の手を握った。
「ただ……恥ずかしい話なんだが、今手元に現金がない。会社の口座は真由が監視していて、大きな金額を動かせないんだ」
美咲は黙って聞いていた。
「だから……」
蓮が美咲の目を見つめる。
「君に、頼みがあるんだ」
美咲は既に、何を言われるか分かっていた。
「私の、貯金……?」
「800万でいい。弁護士の着手金と、当面の生活費に」
蓮が美咲の頬に手を添えた。
「結婚したら、すぐに返す。それに、僕の年収なら半年で返済できる」
美咲は迷った。
800万円。
新卒から10年間、必死に貯めた全財産だった。
でも――。
美咲は左手の指輪を見た。
この指輪をくれた男は、私を愛している。
あの平凡な妻との生活を捨てて、私を選んでくれた。
「……分かった」
美咲は頷いた。
「明日、銀行で下ろしてくる」
「本当に?」
蓮の顔が輝いた。
「ありがとう、美咲。君がいてくれて、本当に良かった」
蓮が美咲を強く抱きしめた。
その腕の中で、美咲は思った。
私は、人生最高の選択をしたのだ。
3
翌日。
美咲は銀行で、全財産を現金で引き出した。
800万円。
札束の重さが、ずっしりと鞄に響く。
指定された喫茶店に向かうと、既に蓮が待っていた。
「お疲れ様、美咲」
蓮が席を立って迎えた。
美咲は鞄から封筒を取り出す。
「これ……」
蓮が封筒を受け取り、中身を確認した。
「800万、確かに。ありがとう」
蓮は封筒をジャケットの内ポケットにしまった。
「これで、真由との離婚手続きが進められる」
「いつ頃……?」
「来月には成立する。そうしたら、僕たちは――」
その時、喫茶店の入口が開いた。
一人の女性が入ってくる。
美咲は、その女性を知っていた。
神谷真由。
彰の妻。
いや、もうすぐ元妻になる女。
「彰さん……あの人……」
美咲が震える声で囁いた。
だが、蓮は微笑んでいた。
そして、真由に手を振った。
「こっちだよ」
美咲の脳が、理解を拒否した。
真由が、二人のテーブルに近づいてくる。
そして、美咲の向かいに座った。
「初めまして、美咲さん」
真由が微笑んだ。
「神谷真由です。彰の、妻」
「え……で、でも……」
美咲は蓮を見た。
「離婚したって……」
「してませんよ」
蓮の声が、変わった。
彰の声ではない。もっと低く、冷たい声。
「僕は蓮。彰じゃない」
美咲の手から、コーヒーカップが滑り落ちた。
ガシャン、という音が店内に響く。
「え……嘘……」
「嘘じゃありません」
真由がハンドバッグから写真を取り出した。
彰と美咲が、ビジネスホテルに入る写真。
「これ、貴女と本物の彰さんですね」
真由が写真を美咲の前に置く。
「素敵なツーショットです。ご両親に送りましょうか?それとも、会社の人事部?」
「やめて……」
美咲の声が掠れた。
「800万、返すから……」
「無理ですね」
蓮が封筒を取り出した。
「これ、見てください」
それは、契約書だった。
『金銭贈与契約書』と書かれている。
「これ、貴女がサインしたものです。『この金は返済不要』って」
「そんな……私、そんなの……」
美咲は記憶を辿った。
あの時、蓮が「念のため、贈与の証明書にサインして」と言った。
深く考えず、サインした。
まさか、それが――。
「法的には、貴女が恋人に贈与した金です」
真由が冷たく言った。
「詐欺だと訴えますか?でも、その場合――」
真由がスマートフォンを取り出した。
画面には、美咲が送った大量のメッセージが映っている。
『今夜も会いたい。奥さんには悪いけど、あなたが選ぶべきは私よ』
『早く離婚して。私、待ちきれない』
『あの女のどこがいいの?私の方が若いし、綺麗でしょ?』
美咲の顔から、血の気が引いた。
「これも、一緒に提出しましょうか。『既婚男性と不倫し、金を騙し取ろうとした女』として」
「お願い……やめて……」
美咲が泣き崩れた。
店内の客たちが、好奇の視線を向ける。
真由は立ち上がった。
そして、美咲の耳元で囁いた。
「彰さん、貴女のこと『便利な女』って言ってましたよ。安いホテルで済むから経済的だって」
その言葉が、美咲の心の最後の防波堤を破壊した。
「あ……ああ……」
美咲は声にならない声を漏らした。
真由と蓮が店を出ていく。
美咲は、テーブルに突っ伏したまま、動けなかった。
左手の薬指には、まだ指輪が輝いていた。
偽物の愛の、証として。
4
喫茶店を出ると、真由が深呼吸をした。
「少し……可哀想だったかな」
真由が呟く。
蓮は首を振った。
「彼女は共犯者です」
蓮の声は、感情を欠いていた。
「他人の夫を奪おうとした時点で、この結末は決まっていた」
真由は何も言えなかった。
確かに、美咲は被害者ではない。
彼女は、私から夫を奪おうとした。
私が不妊治療で苦しんでいる間、彼女は夫を抱いていた。
「それに――」
蓮が真由の手を取った。
「彼女が失ったのは、金だけです。でも貴女は、10年間の人生を失った」
その言葉に、真由の目から涙が零れた。
そうだ。
私が失ったのは、金じゃない。
信じていた夫。
子供を授かろうと必死だった日々。
そして、自分自身の尊厳。
「次は、本物の番ですね」
蓮が真由の涙を拭った。
「彰さんに、全てを返してもらいましょう」
真由は頷いた。
もう、迷いはなかった。
私は、最後まで復讐を貫く。
たとえ、それが私自身を壊すとしても。
二人は並んで歩いていった。
背後で、喫茶店の窓越しに、美咲が崩れ落ちている姿が見えた。
だが、真由はもう振り返らなかった。
復讐は、まだ半分も終わっていない。
本当の地獄は、これからだ。
――第4話 了――
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