第3話 暗闇の共犯者
1
蓮の唇が、私の首筋を這った。
隣のベッドでは、本物の夫・彰のいびきが規則正しく響いている。
グオォォ……グオォォ……
その音が、私の背徳感を増幅させた。
「真由……」
蓮が彰の声で囁く。
でも、その囁き方は、本物の彰とは何もかもが違っていた。
彰は私の名前を呼ぶ時、いつも義務的だった。まるでチェックリストの項目を読み上げるように。
でも蓮は、私の名前を――真由という三文字を、まるで祈りのように、愛おしそうに発音した。
「あ……っ」
蓮の手が、私のパジャマのボタンを一つ外した。
衣擦れの音が、暗闇に響く。
サラサラ……
私は思わず息を呑んだ。
音を立てたら、彰が目を覚ましてしまう。
「大丈夫ですよ」
蓮が私の耳元で囁いた。
「彼は、あと三時間は起きません。睡眠薬を飲んでいるから」
「……え?」
「出張疲れだと言って、彼のウイスキーに少量混ぜておきました」
蓮の声には、罪悪感のかけらもなかった。
むしろ、狩人が獲物を仕留めた後のような、冷たい満足感が滲んでいた。
「だから、安心して……」
蓮の手が、さらに下のボタンに触れた。
「声を出してください。彼には絶対に聞かせられなかった、あなたの声を」
ゴオォォ……本物の彰のいびきが、また響いた。
その音を合図にするように、蓮は私のパジャマを完全に脱がせた。
暗闇の中、蓮の瞳だけが妖しく光っていた。
彰の顔。
彰の体。
でも、その奥にあるのは、全く別の何か――。
「……っ」
蓮の唇が、私の鎖骨を辿った。
チュ……チュ……
濡れた音が、静かな寝室に響く。
私は無意識に、蓮の頭に手を置いた。
これは、間違っている。
隣で夫が眠っているのに。
なのに――。
「ねえ、真由さん」
蓮が顔を上げた。
その表情は、暗闇でよく見えなかった。
でも、声のトーンが変わっていた。
彰の声ではなく、もっと低く、野性的な――蓮本来の声だった。
「……名前を呼べ」
「え……?」
「彼じゃなく、俺の名前を」
その命令に、私の体が震えた。
「で、でも……」
「いいから」
蓮の手が、私の太腿に触れた。
「今、お前を抱いているのは、あいつじゃない。俺だ」
その瞬間、私は理解した。
蓮は、もう「彰を演じている」のではなかった。
彼は、私を奪おうとしていた。
本物の夫から。
「れ……蓮……」
私が彼の名を呼んだ瞬間、蓮の体が震えた。
「……もう一度」
「蓮……」
「もっと」
蓮の手が、私の体の奥深くに入り込んできた。
「あ、ああ……蓮っ……」
私の声が、寝室に響いた。
隣では、彰のいびきが変わらず続いている。
グオォォ……グオォォ……
その音が、私たちの背徳を包み隠していた。
2
どれくらい時間が経ったのだろう。
蓮が私の体から離れた時、窓の外はまだ暗かった。
「……行かなきゃ」
蓮が囁いた。
もう、彰の声ではなかった。蓮本来の、少し掠れた低い声だった。
「夜明け前に、この家を出ます」
「……うん」
私は力なく頷いた。
体中が、蓮の痕跡で満たされていた。
本物の夫は、一度も私にこんな感覚を与えなかった。
「また、連絡します」
蓮は服を整え、クローゼットから出た。
そして部屋を出る直前、振り返った。
「真由さん。昨夜は、最高だった」
その言葉を残して、蓮は闇の中に消えた。
私は一人、ベッドに横たわった。
隣では、彰が変わらず眠り続けている。
何も知らずに。
自分の妻が、たった今、自分そっくりの男に抱かれていたことも。
私の目から、涙が零れた。
これは、復讐だったはずだ。
夫を陥れるための、計画だったはずだ。
なのに、なぜ。
私の心は、もう蓮に奪われていた。
3
翌朝。
目覚まし時計が鳴り、私は体を起こした。
全身が怠い。
昨夜の行為の余韻が、まだ体に残っていた。
「……ん」
隣で、彰が寝返りを打った。
そしてゆっくりと目を開ける。
「おはよう」
彰の声は、いつもと変わらず機械的だった。
「お、おはよう……ございます」
私は慌ててパジャマを整えた。
首筋に、蓮が残した痕があるはずだ。
「今日は早く出るから、朝飯はいらない」
彰は起き上がり、洗面所へと向かった。
私は鏡を見た。
首筋に、小さな赤い痕が残っていた。
蓮のキスマーク。
「……っ」
私は慌ててファンデーションを塗り、痕を隠した。
だが、鏡の中の自分の目は、昨日までとは何かが違っていた。
罪悪感と、背徳感と――そして、期待。
蓮に、また会いたい。
その感情が、私の中で膨れ上がっていた。
4
彰が出勤した後、私のスマホが鳴った。
知らない番号だった。
「……もしもし」
『真由さん』
蓮の声だった。
「れ、蓮……」
『昨夜は、楽しかったですね』
その言葉に、私の体が熱くなった。
「あの……」
『また、会いたいですか?』
「……っ」
私は答えられなかった。
いや、答えたくなかった。
なぜなら、答えは決まっていたから。
「会い、たい……」
その言葉を口にした瞬間、私は悟った。
もう、後戻りはできない。
私は、復讐のためではなく――。
蓮に会うために、この危険な関係を続けようとしていた。
『分かりました。では、今夜も』
「今夜も……?」
『ええ。あなたの夫が帰宅したら、また僕を家に入れてください』
蓮の声が、甘く囁く。
『そして、今度は……もっと危険な場所で、あなたを抱きます』
「危険な、場所……?」
『リビングです。あなたの夫がシャワーを浴びている間に』
私の心臓が、激しく跳ねた。
「そんな……バレたら……」
『バレませんよ。だって、僕は完璧に彼になれるんですから』
蓮の笑い声が聞こえた。
『それに、真由さん。あなたも望んでいるんでしょう? もっとスリルを』
その言葉が、私の本心を突いた。
確かに、私は――。
昨夜の背徳感が、忘れられなかった。
夫が隣で眠る中、偽物の夫に抱かれる罪悪感と快楽が。
「……分かった」
私は、自分でも信じられない言葉を口にしていた。
「今夜も、待ってる」
『いい返事です。では、また夜に』
電話が切れた。
私は震える手で、スマホを置いた。
私は、もう引き返せない場所まで来てしまった。
5
その夜。
彰が帰宅した。
「ただいま」
いつもと同じ、無機質な声だった。
「おかえりなさい」
私は夕飯の準備をしながら答えた。
心臓が、激しく跳ねている。
今夜も、蓮が来る。
「今日は疲れた。先にシャワー浴びる」
彰はネクタイを緩めながら、二階へと上がっていった。
その瞬間、私は裏口へと走った。
鍵を開けると、そこに蓮が立っていた。
今日も、彰と全く同じ服装をしている。
「こんばんは、真由さん」
蓮は笑った。彰の笑い方で。
「今夜は、もっと楽しみましょうね」
蓮は家の中に入り、私の手を取った。
そして、リビングへと導いた。
「ここで……?」
「ええ。彼がシャワーを浴びている、たった十五分の間に」
蓮は私をソファに押し倒した。
上から、シャワーの音が聞こえる。
ザアアアア……
「音を立てないでください。でも、声は出していいですよ」
蓮の手が、私のスカートの中に入ってきた。
「あ……っ」
「もっと、声を」
蓮の唇が、私の耳たぶを噛んだ。
「だ、ダメ……彰さんが……」
「大丈夫。まだシャワー中です」
蓮の手が、さらに奥へと――。
その時、二階からドアの音が聞こえた。
バタン。
私の体が硬直した。
「……っ!」
蓮は素早く私から離れ、ソファの横に立った。
そして、まるで何もなかったかのように、テレビのリモコンを手に取った。
階段を降りる音が聞こえる。
私は慌てて服を整えた。
彰がリビングに入ってきた。
「あ、れ……」
彰が立ち止まった。
そして、ソファに立つ蓮を見た。
「……俺?」
その瞬間、時間が止まった。
彰と蓮が、向かい合っていた。
全く同じ顔。
全く同じ体格。
全く同じ服装。
鏡合わせのように。
「何、これ……」
彰の声が震えた。
蓮は、ゆっくりと笑った。
「こんばんは、彰さん。初めまして」
彰の顔から、血の気が引いていった。
6
「お前……誰だ……」
彰の声が掠れた。
蓮は、まるで自分の家にいるかのように、ソファに腰を下ろした。
「僕ですか? 僕は、あなたですよ」
「何を……」
「真由さん、説明してあげてください」
蓮が私を見た。
私は、震える声で口を開いた。
「彰さん……これは……」
「真由、お前、何を……」
彰が私に近づこうとした瞬間、蓮が立ち上がった。
「動かないでください、彰さん。今、あなたには選択肢が二つあります」
蓮の声が、冷たく響いた。
「一つ。今すぐこの家を出て、警察に通報する。その場合、あなたの不倫の証拠を全てメディアにリークします」
「……っ」
「二つ。何も見なかったことにして、寝室に戻る。その場合、僕たちは何もしません。今夜は」
彰の顔が、恐怖に歪んだ。
「お前ら……何を……」
「選んでください。五秒以内に」
蓮の瞳が、冷酷に光った。
「五、四、三――」
「わ、分かった! 分かったから!」
彰は両手を上げた。
「何もしない。何も見てない。だから……」
「賢明な判断です」
蓮は満足そうに頷いた。
「では、お休みなさい。彰さん」
彰は震えながら、階段を上がっていった。
その背中は、もう「完璧な夫」ではなかった。
ただの、怯えた男だった。
蓮は私の方を向いた。
「さあ、真由さん。彼は二度と、ここには降りてきません」
蓮は私を抱き寄せた。
「今夜は、朝まで楽しみましょう」
私の体が震えた。
恐怖か、興奮か、自分でも分からなかった。
でも一つだけ、確かなことがあった。
私は、もう本物の夫には戻れない。
偽物の夫――蓮の虜になってしまった。
――第3話 了――
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