第2話 夫を「複製」する
1
翌朝、インターホンが鳴った。
時刻は午前九時。彰が出張に出てから、ちょうど二十四時間が経過している。
「おはようございます、真由さん」
ドアを開けると、そこに立っていたのは彰だった。
いや、違う。蓮だ。
だが、昨日とは何かが決定的に違っていた。
彼は彰が普段着ているブランドのシャツを着て、彰が好むシンプルな腕時計をつけ、彰が毎朝つける香水の匂いを纏っていた。
そして何より――その佇まい全体が、もう「蓮という男が彰を演じている」のではなく、「彰そのもの」だった。
「……おはよう、ございます」
私は思わず敬語で答えてしまった。
蓮は小さく笑う。
「真由さん、昨日言いましたよね。僕のことは『彰さん』と呼んでください」
「で、でも……」
「今日から訓練です。どんな時も、僕を『夫』として扱ってください。そうしないと、体が覚えません」
蓮は――いや、もう彰と呼ぶべきなのだろうか――靴を脱いで家に上がった。
その足取りさえ、本物の彰と同じだった。少し内股気味で、かかとから着地する歩き方。
「じゃあ、始めましょうか」
彰(蓮)はリビングのソファに座った。本物の彰がいつも座る、定位置に。
「まず、朝の会話から。あなたの夫は、朝起きて最初に何を言いますか?」
私は震える声で答えた。
「『おはよう。よく眠れた?』って……いつも同じことを聞きます」
「声のトーンは?」
「少し低めで、義務的な感じ……心がこもっていない」
彰(蓮)は頷き、目を閉じた。そして数秒後、目を開けて私を見た。
「おはよう。よく眠れた?」
その瞬間、私の全身に鳥肌が立った。
完璧だった。
声の高さ、抑揚、間の取り方、そして目の焦点の合わせ方――全てが、本物の彰と寸分違わなかった。
「……す、すごい」
「次は、朝食の時。彼は何を食べますか? どんな仕草で?」
私はキッチンへ向かい、彰がいつも食べている朝食を用意し始めた。
トースト一枚、目玉焼き、サラダ、コーヒー。
彰(蓮)はダイニングテーブルに座り、私が料理を運ぶのを待った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
彰(蓮)はフォークを手に取った。本物の彰と同じように、左手で。
そして、トーストを一口食べる。
噛む回数まで、同じだった。
「彰さんは……いつも、スマホを見ながら食べます」
「そうですか」
彰(蓮)はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見つめながら食事を続けた。
その無機質な態度が、あまりにも本物そっくりで、私は胸が締め付けられた。
これが、私の十年間だったのだ。
夫は、私を見ることなく、私の作った料理を機械的に口に運び、スマホの中の別世界に没頭していた。
「真由さん」
彰(蓮)が顔を上げた。
「つらいですか?」
その言葉に、私ははっとした。
本物の彰は、一度もそんなことを聞いたことがなかった。
「……いえ、続けてください」
「分かりました。では次に――」
彰(蓮)は立ち上がり、私に近づいた。
「あなたの夫は、出勤前にどうしますか?」
「キスを……します。おでこに」
「どんな風に?」
私は目を閉じた。
そして数秒後、冷たい唇が私のおでこに触れた。
まるで義務を果たすように、短く、機械的に。
本物の彰と、全く同じだった。
だが――。
唇が離れた後、彰(蓮)の手が私の頬に触れた。
「でも、本当はこうしてほしかったんじゃないですか?」
そう囁いて、彼は私の唇に、ゆっくりとキスをした。
今度は、長く、深く、熱を込めて。
私の体が硬直する。
これは、本物の彰が一度もしたことのないキスだった。
「……っ」
私は彰(蓮)を押し退けた。
「何を……」
「訓練です」
彰(蓮)は涼しい顔で答えた。
「あなたが本当に求めていた『夫の姿』を、僕は演じる。それが契約でしょう?」
私は何も言えなかった。
確かに、蓮は言っていた。
「本物より上手に、あなたを愛してみせる」と。
「……分かりました」
私は深呼吸をした。
「続けましょう」
2
その日、私たちは朝から晩まで「夫婦の日常」を演じ続けた。
朝食、出勤の見送り、帰宅後の会話、夕食、テレビを見る時間――。
彰(蓮)は、本物の彰の全ての仕草を完璧に再現した。
そして同時に、私が本当は夫にしてほしかったこと――優しい言葉、温かい視線、心のこもった触れ合い――をも、巧妙に織り交ぜてきた。
「今日はどうだった?」
夕食の後、彰(蓮)が私に聞いた。
本物の彰は、そんなことを聞いたことがなかった。
「……普通です」
「そう。でも、少し疲れているみたいだね」
彰(蓮)は私の隣に座り、肩に手を置いた。
「不妊治療、まだ続けているの?」
その言葉に、私の胸が詰まった。
本物の彰は、治療のことをほとんど聞かなかった。
「……もう、やめました」
「そうか」
彰(蓮)は私の髪を撫でた。
「無理しなくていいよ。俺は、真由がいてくれるだけで十分だから」
その言葉が、私の心に突き刺さった。
これは、演技だ。
蓮が、私のために演じているだけだ。
なのに、なぜ。
なぜ、こんなにも心が揺れるのだろう。
「真由さん」
彰(蓮)が私の顔を覗き込んだ。
「次の段階に進みましょうか」
「……次の段階?」
「ええ。あなたの夫が、あなたを抱く時の全て」
私の心臓が、激しく跳ねた。
「それは……」
「復讐のためには必要です。本物の彼があなたを抱く時と、僕があなたを抱く時。その差が大きければ大きいほど、あなたの復讐は成功する」
彰(蓮)は立ち上がり、寝室へと向かった。
「さあ、教えてください。あなたの夫が、どれほどあなたを雑に扱ってきたのかを」
3
寝室で、私は震える声で説明し始めた。
「彰さんは……週に一度くらい、私を求めます。でも、それは義務のような感じで……」
彰(蓮)はベッドに座り、私の話を黙って聞いていた。
「前戯は、ほとんどありません。キスも、短く……形だけです」
「体のどこに触れますか?」
「胸と……あと、下を。でも、すぐに……」
私は言葉に詰まった。
「すぐに、本番に入る。そして五分もしないうちに終わる。そういうことですね」
彰(蓮)の声は、冷静だった。
「はい……」
「あなたが感じることは?」
「……ありません。一度も」
その言葉を口にした瞬間、私の目から涙が零れた。
十年間。
私は一度も、夫に愛されたことがなかった。
「分かりました」
彰(蓮)は立ち上がり、私の前に立った。
「では、僕が教えてあげましょう。本当の愛し方を」
「え……」
「安心してください。今日は、触れません」
彰(蓮)は私の手を取った。
「でも、明日からは違います。あなたの夫が帰ってくるまで、あと一日。その間に、あなたの体に『本物の愛』を刻み込みます」
その言葉の意味を理解した時、私の全身が震えた。
「そして、あなたの夫が帰宅した夜――」
彰(蓮)は私の耳元で囁いた。
「僕が、あなたの夫として、あなたを抱きます。本物の夫が隣の部屋で寝ている間に」
4
翌日。
彰(蓮)は朝から、私に「愛し方」を教え始めた。
「まず、キスから」
彼は私の唇に触れた。
ゆっくりと、丁寧に、まるで私という存在全てを味わうように。
本物の彰のキスとは、何もかもが違っていた。
「次に、髪に触れます」
彼の指が、私の髪を撫でた。
根元から毛先まで、一本一本を慈しむように。
「首筋に、唇を這わせます」
熱い吐息が、私の肌を焼いた。
「鎖骨を、舌でなぞります」
「あ……」
私は思わず声を漏らした。
「いいですよ、真由さん。声を出してください。あなたの夫は、あなたの声を聞いたことがないでしょうから」
彰(蓮)の手が、私のシャツのボタンに触れた。
「ここから先は……まだ早いですね」
彼は手を止めた。
「今日は、ここまで。でも、あなたの体は覚えましたね。本物の愛がどういうものか」
私の体は、まだ震えていた。
これは、訓練のはずだった。
復讐のための、演技の練習のはずだった。
なのに、なぜ。
私の体は、蓮の触れ方を覚えてしまった。
本物の夫よりも、熱く、優しく、執拗に私を愛する、この偽物の男の手を。
「さあ、準備はできましたか?」
彰(蓮)が私を見つめた。
「明日の夜、あなたの夫が帰ってきます。そして、僕たちの本当の戦いが始まる」
5
出張最終日の夜。
彰から電話がかかってきた。
「真由、明日の朝には帰る。夕飯、用意しておいてくれ」
いつもと同じ、機械的な声だった。
「分かりました」
電話を切ると、彰(蓮)が後ろに立っていた。
「聞こえました。明日ですね」
「……はい」
「では、最終確認をしましょう」
彰(蓮)は私の手を取った。
「僕は、あなたの夫が帰宅した後、この家に侵入します。あなたが裏口の鍵を開けておいてください」
「侵入……」
「ええ。そして、夫が寝静まった深夜、あるいはシャワーを浴びている隙に、僕はあなたの寝室に入ります」
彰(蓮)の瞳が、危険な光を帯びた。
「そして、夫のフリをして、あなたを抱く。隣の部屋に本物がいるのに」
私の心臓が、激しく跳ねた。
「本当に……できるんですか?」
「できますよ。というより――」
彰(蓮)は私を抱き寄せた。
「僕は、それを待っていたんです。本物の夫がいる状況で、あなたを奪う瞬間を」
その言葉に、私は背筋が凍った。
蓮の目には、もう彰の面影はなかった。
そこにあったのは、純粋な執着と、狂気じみた欲望だった。
「真由さん。あなたは、もう後戻りできませんよ」
蓮は私の耳元で囁いた。
「明日の夜、あなたは選ぶことになる。本物の夫か、偽物の僕か」
「私は……復讐のために……」
「本当に、それだけですか?」
蓮の問いかけに、私は答えられなかった。
確かに、最初は復讐だけが目的だった。
でも、今は――。
私の心は、もう蓮に傾き始めていた。
6
翌日の夕方。
本物の彰が帰宅した。
「ただいま」
彰は玄関で靴を脱ぎながら、スマホを見ていた。
私に視線を向けることもなく。
「おかえりなさい」
私は夕食の準備を続けた。
心臓が、激しく跳ねている。
今、裏口には蓮が潜んでいる。
私が開けた鍵の向こうで、息を潜めて。
「今日の夕飯は?」
彰がリビングに入ってきた。
「あなたの好きな、ハンバーグです」
「そう」
彰はソファに座り、ネクタイを緩めた。
その仕草は、蓮が何度も練習したものと全く同じだった。
いや、違う。
蓮の方が、もっと自然だった。
「シャワー浴びてくる」
彰は立ち上がり、寝室へと向かった。
その瞬間、私は裏口へと走った。
ドアを開けると、そこに蓮が立っていた。
「準備はいいですか?」
蓮の囁きに、私は頷いた。
「彼がシャワーを浴びている間に、僕はクローゼットに隠れます。そして――」
蓮は私の唇に、短くキスをした。
「あなたが合図をしたら、僕があなたを抱く」
私の体が震えた。
これは、本当に復讐なのだろうか。
それとも――。
「真由」
二階から、彰の声が聞こえた。
「タオル、持ってきてくれ」
「は、はい!」
私は慌ててタオルを持って二階へ上がった。
彰は浴室で、既に服を脱いでいた。
「ここに置いて」
「分かりました」
彰は私を一瞥もせずに、シャワーを浴び始めた。
その背中を見つめながら、私は思った。
この男は、私を見ていない。
十年間、一度も。
私はゆっくりと階段を下り、裏口を開けた。
蓮が音もなく家の中に入ってくる。
そして、私の手を取った。
「さあ、始めましょう。あなたの復讐を」
私たちは二階へと向かった。
シャワーの音が聞こえる。
蓮は寝室のクローゼットに身を隠した。
私は震える手で、ベッドに座った。
やがて、シャワーの音が止まった。
彰が寝室に入ってくる。
「ああ、疲れた」
彰はベッドに倒れ込んだ。
そして、私を見ることなく、スマホを取り出した。
「……彰さん」
「ん?」
「今日は……早く寝ますか?」
「ああ、そうだな」
彰はスマホを置き、電気を消した。
そして、私に背を向けて寝た。
暗闇の中、私は息を潜めた。
クローゼットの中で、蓮も息を潜めているはずだ。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
やがて、彰のいびきが聞こえ始めた。
その瞬間――。
クローゼットのドアが、音もなく開いた。
蓮が、闇の中から現れた。
彼は私のベッドに近づき、そっと私の手を取った。
「真由」
その声は、彰の声だった。
でも、込められた熱は、彰のものではなかった。
「彰……さん?」
私は震える声で呟いた。
本物の彰は、隣で寝ている。
でも、私の手を握っているのは――。
「愛してるよ、真由」
蓮が、彰の声で囁いた。
その言葉を、本物の彰は一度も言ったことがなかった。
蓮は私を抱き寄せた。
そして、ゆっくりと唇を重ねた。
私の体が、震えた。
これは、間違っている。
でも、止められない。
「真由……」
蓮の手が、私のパジャマのボタンに触れた。
隣では、本物の夫が眠っている。
私は、偽物の夫に抱かれようとしている。
これが、復讐。
これが、私の選んだ道。
「あ……」
蓮の唇が、私の首筋を這った。
本物の彰が、一度もしたことのない愛し方で。
私の体は、もう蓮のものだった。
そして、私の心も――。
――第2話 了――
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