偽装夫(フェイク)は本物より愛が深い~サレ妻の復讐が、狂おしい溺愛に変わるまで~
ソコニ
第1話 地獄の鏡合わせ
プロローグ
暗闇の中、夫の香水の匂いがした。
慣れ親しんだ、少し冷たい指先が私の首筋をなぞる。
「……彰さん?」
私が呼ぶと、彼は私を強く抱きしめた。
声も、腕の太さも、私を見る瞳も、間違いなく私の「夫」だ。
――けれど、隣の寝室からは、本物の夫がいびきをかいて寝ている音が聞こえてくる。
私を抱いているこの男は、誰?
なぜ、本物の夫よりも、私を壊すほど熱く愛してくれるの?
私は、夫のフリをした「偽物」の肩に爪を立てた。
復讐のために雇ったはずの男に、心まで奪われ始めているとも知らずに。
第1話
1
「真由、これは誤解だ」
夫・彰の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
私の手の中には、彼のスマートフォンがある。画面には、秘書の美咲との生々しいやり取りが延々と続いていた。
「今夜も会いたい。奥さんには悪いけど、あなたが選ぶべきは私よ」
「分かってる。でも真由を傷つけたくない。もう少し時間をくれ」
私は震える指でスクロールを続けた。三ヶ月分。いや、もっと前からかもしれない。不妊治療を始めたあの日から、もう――。
「誤解……?」
私の声は、不思議なほど冷静だった。怒りも、悲しみも、もう通り越してしまったのだろう。
「ああ、あれは仕事上の――」
「彰さん」
私は彼の言葉を遮った。
「この写真も、仕事ですか?」
スマートフォンを彼に向ける。そこには、高級ホテルのベッドで抱き合う二人の姿があった。撮影日時を見ると、私が二回目の体外受精で入院していた日だった。
彰の顔が、一瞬だけこわばった。だがすぐに、いつもの穏やかな表情に戻る。そして、私の手を優しく握った。
「……真由。座って聞いてくれ」
彰は私をソファに座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「確かに、美咲とそういう関係になった。それは認める」
「なぜ……」
「君が不妊治療で疲れているのを、俺はずっと見ていた。毎晩、ホルモン注射の副作用で辛そうにしている君を。俺に触れられるのさえ、苦痛そうだった」
彰は私の肩を抱いた。
「だから俺は、君にこれ以上負担をかけたくなかった。治療に専念してほしかった。そのために、あえて外で……済ませていたんだ」
私は、自分の耳を疑った。
「つまり……私への、思いやり、だと?」
「そうだ。君を守るための選択だったんだよ、真由」
彰の声は、心の底から誠実そうに響いた。左の口角がわずかに上がっている。彼が嘘をつく時の、あの癖だ。
「君は俺の大切な妻だ。だから、子供を授かるまでは無理をさせたくない。美咲は……ただの気分転換だった」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
気分転換。
私が体を痛めつけながら彼の子供を授かろうとしている間、この男は「気分転換」で他の女を抱いていた。
しかもそれを、「思いやり」だと言い切った。
「……そう、ですか」
私は静かに頷いた。
彰の顔に、安堵の色が浮かぶ。
「分かってくれたか。ありがとう、真由。お前は本当に理解のある妻だ。だから俺も、お前と美咲、ちゃんと選ぶから。もう少しだけ、時間をくれ」
理解のある妻。
選ぶ、時間。
私は笑顔を作った。完璧な、従順な妻の笑顔を。
「あなたを信じています」
嘘だ。
もう二度と、この男を信じることはない。
そして、選ばせたりもしない。
私が、この男の全てを奪う。
2
彰が出張に出た翌日、私は都心の雑居ビルの前に立っていた。
看板には何も書かれていない。だが、ネットの奥深くで囁かれている情報によれば、ここが「あの場所」だという。
エレベーターで五階まで上がり、505号室のドアをノックする。
「……どうぞ」
低い女性の声が聞こえた。
室内は薄暗く、受付らしきカウンターの奥に、黒いスーツの女性が座っていた。年齢は四十代半ばだろうか。鋭い眼光が、私を値踏みするように見つめる。
「初めての方ですね。ご紹介は?」
「ネットで……見つけました」
女性は小さく笑った。
「最近は、そういう方も増えました。で、ご用件は?」
「俳優を……雇いたいんです」
「俳優?」
女性は片眉を上げた。
「ええ。特殊な……演技のできる方を」
「特殊、ですか。具体的には?」
私は深呼吸をしてから、口を開いた。
「私の夫を、完璧に演じられる人を探しています。声も、仕草も、全て」
女性の表情が変わった。興味深そうに、私に身を乗り出す。
「なるほど。替え玉、ということですね。アリバイ工作ですか? それとも――」
「復讐です」
その言葉を口にした瞬間、私の中で何かが決定的に変わった。
もう後戻りはできない。
女性は立ち上がり、奥の部屋へと私を案内した。
「お客様、実は当事務所では、そういった『特殊な演技』を専門に扱っております。替え玉、影武者、成り代わり……様々なニーズにお応えしてきました」
「条件は……?」
「徹底した秘密保持。そして、どのような結果になっても、当事務所の関与を一切口外しないこと。それだけです」
「もちろんです」
女性は満足そうに頷き、タブレット端末を私に差し出した。
「では、まずご主人様の情報を登録してください。身長、体格、声質、癖、特徴……詳細であればあるほど、マッチングの精度が上がります」
私は震える指で、夫の情報を入力していった。
身長182センチ。体重74キロ。低く落ち着いた声。左眉に小さな傷。人差し指で眉間を押さえる癖。嘘をつく時に左の口角が上がる。シトラス系の香水を好む――。
十年間、隣で暮らしてきた男の全てを、私は驚くほど正確に覚えていた。
愛していたから、ではない。
観察していたからだ。いつか、この男が私を裏切る日が来ると、心のどこかで分かっていたから。
「登録完了です。では、候補者をご覧ください」
タブレットに、三人の男性の写真が表示された。
一人目は、確かに彰に似ている。だが、どこか柔らかすぎる印象だ。
二人目は、体格は近いが、目つきが鋭すぎる。
そして、三人目――。
私の手が、思わず画面を握りしめた。
「……この人」
写真の男は、彰と瓜二つだった。
いや、瓜二つどころではない。本人と言われても疑わないほど、完璧に似ていた。
「蓮さんですね。当事務所でも最高ランクの演技者です。ただし――」
女性の声が、わずかに沈む。
「彼は、少々特殊な方です」
「特殊……?」
「依頼を選びます。気に入らない案件は、どんな高額報酬でも断る。そして一度引き受けると、役に完全に没入する。時には、依頼主様でさえ本物と見分けがつかなくなるほどに」
女性は私の目を覗き込んだ。
「それだけではありません。蓮さんは、演じる相手の……秘密を見抜く能力があるんです」
「秘密を……?」
「ええ。本人さえ気づいていない嘘、隠された過去、表に出さない本性。そういったものを、なぜか見抜いてしまう」
私の背筋に、冷たいものが走った。
だが同時に、心の奥底で何かが疼いた。
この男なら――。
この男なら、彰を完璧に地獄へ落とせる。
「……その方でお願いします」
「承知いたしました。では契約書の――」
「あの」
私は女性の言葉を遮った。
「彼に会うことは、できますか?」
女性は一瞬、驚いたような顔をした。だがすぐに、意味深な笑みを浮かべる。
「通常は事前面談なしで進めるのですが……まあ、今回は特別ですね。蓮さんも、あなたに会いたがるでしょうから」
その言葉の意味を、私は理解できなかった。
3
十分後、ドアが開いた。
そして、彰が部屋に入ってきた。
私の心臓が、激しく跳ねる。
いや、違う。これは彰じゃない。蓮という男だ。
だが、信じられないほど似ていた。
身長、体格、髪型、歩き方――全てが、夫そのものだった。
「初めまして」
蓮が口を開いた瞬間、私は息を呑んだ。
声まで、彰と同じだった。低く、落ち着いた、どこか機械的な響き。
「僕が蓮です。あなたが、今回の依頼主ですね」
蓮は私の前に座り、じっと私を見つめた。
その瞳は、彰のものとは決定的に違った。
彰の目は、いつも穏やかで、どこか他人事のような冷たさがあった。
だが蓮の瞳は、私を貫くように熱く、狂気じみた情熱を秘めていた。
「あなたの夫を、僕に演じさせたいんですね」
「……はい」
「理由は、復讐」
蓮は笑った。彰の笑い方と、全く同じ角度で口角を上げながら。
だが、その笑みには彰にはない、鋭利な刃物のような冷たさがあった。
「いいですよ。引き受けましょう。あなたの旦那様――神谷彰さん。面白そうな男だ」
私は驚いて蓮を見た。
「……私、夫の名前、まだ言ってません」
「ああ、さっき資料を見せてもらいました」
蓮は無造作に答えた。だが、その目は笑っていなかった。
「それより、真由さん。一つ、聞いていいですか」
「何でしょう」
「あなたの旦那様は、本当はシトラスの香水なんて嫌いでしょう?」
私の息が、止まった。
「……どうして、そんなことを」
「彼のSNSを少し見ただけです。投稿された写真の中で、香水をつけているのは決まってビジネスシーンだけ。プライベートの写真では、一度も香水の瓶が映り込んでいない」
蓮は身を乗り出した。
「つまり、シトラスの香水は『できる男』を演出するための小道具。本当の彼は、無臭を好む。違いますか?」
私は、言葉を失った。
確かに、彰は家にいる時、香水をつけない。
「それに、彼が左の口角を上げるのは――」
「嘘をつく時……」
私が呟くと、蓮は満足そうに頷いた。
「そう。あなたも薄々気づいていたんですね。彼の『優しさ』が、全部演技だって」
その言葉が、私の胸に突き刺さった。
「どうして……あなたに、そんなことが」
「職業病です」
蓮は立ち上がった。
「人を演じるには、人を見抜く必要がある。嘘も、本音も、全部」
そして、私の目をまっすぐ見つめた。
「真由さん。あなたが求めているのは、単なる復讐じゃない。違いますか?」
「……え?」
「あなたは、彼に愛されたかった。本当に、心の底から。でも彼は、あなたを『理解のある妻』という役に押し込めて、自分は『完璧な夫』を演じ続けた」
蓮の声が、私の心の奥底を抉る。
「だからあなたは、彼を壊したい。彼の演技を、全部剥ぎ取りたい。そして最後に、彼が本当に何も持っていない空っぽの人間だったことを、証明したいんだ」
私の目から、涙が零れた。
そうだ。
それが、私の本当の願いだった。
「……その通り、です」
「分かりました」
蓮は私の涙を、そっと指で拭った。
その指先は、彰の指よりもずっと温かかった。
「じゃあ僕は、あなたの旦那様を完璧に演じます。そして最後に、あなたに見せてあげる」
「何を……?」
「本物よりも上手に、あなたを愛する『偽物の夫』を」
その言葉に、私の体が震えた。
恐怖か、期待か、自分でも分からない。
「契約は、いつから?」
「今すぐにでも」
蓮は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「さあ、僕に全てを教えてください。あなたの夫が、どうやってあなたを抱くのか。どんな言葉で、あなたを騙してきたのか。そして――」
蓮の瞳が、危険な光を帯びる。
「あなたが本当に求めていた、夫の姿を」
その手を握った瞬間、私は悟った。
これは、夫への復讐というより――。
自分自身を、取り戻すための戦いなのだと。
4
契約を済ませ、私は蓮を自宅へと招いた。
彰は三日間の出張中だ。その間に、蓮に夫の全てを叩き込む。
「まず、家の中を案内します」
私は蓮を寝室へと導いた。
「彰さんは、いつもこのベッドの右側で寝ます。枕は低めが好きで、寝る前には必ずビジネス書を読みます。でも――」
「でも?」
「読んでいるフリだけです。実際には、スマホでゲームをしているか、女性とメッセージをしているか……」
私の声が震える。
蓮は黙って頷きながら、部屋の隅々まで目を凝らした。まるで、この空間に染み付いた夫の気配を吸収するように。
「香水は、ここです」
私はドレッサーから、彰の愛用する香水を取り出した。
「シトラス系の、これ。毎朝、首筋と手首につけます。本当は嫌いなのに」
蓮は香水を手に取り、自分の首筋に吹きかけた。
瞬間、部屋中に彰の匂いが広がる。
私の胸が、苦しくなった。この匂いと共に、何度裏切られてきたのだろう。
「それから、これ」
私は引き出しから、彰の私物を次々と取り出した。
時計、ネクタイピン、カフスボタン、結婚指輪――。
「全部、覚えてください。彰さんが触れるもの、身につけるもの、全て」
蓮は一つ一つを丁寧に手に取った。そして、まるで何十年も使い続けてきたかのように、自然に身につけ始めた。
時計を左手首に巻く。カフスボタンをシャツにつける。結婚指輪を――。
「……これは」
蓮が結婚指輪を手に取った瞬間、私は思わず目を逸らした。
「彰さんは、最近あまりつけません。『仕事の邪魔だから』って」
「本当の理由は、不倫相手の前で既婚者だとバレたくないから、ですね」
蓮の冷たい声が、事実を突きつける。
「……はい」
「でも僕は、つけますよ。この指輪を」
蓮は結婚指輪を自分の薬指にはめた。
「あなたの夫として振る舞う時、僕はこれをつけます。なぜなら――」
蓮は私の手を取った。
「僕が演じるのは、あなたが望んだ『理想の夫』だから」
その言葉に、私の目から涙が零れそうになった。
「次は、癖です」
私は蓮の前に座った。
「彰さんは、考え事をする時、人差し指で眉間を押さえます。こう」
実演してみせると、蓮は即座に真似た。
完璧だった。まるで、何年も前からその癖があったかのように。
「あと、笑う時、左の口角だけ先に上がります。特に、嘘をつく時」
「こう?」
蓮が笑った瞬間、私は息を呑んだ。
彰だ。
目の前にいるのは、間違いなく彰だ。
「……すごい」
「まだです」
蓮は立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。
彰の歩き方で。彰のペースで。彰の視線の動きで。
そして振り返り、私を見た。
彰の目で。
「真由」
その呼び方まで、完璧だった。少し冷たく、どこか義務的な響きで。
「どう、俺のこと、分かる?」
私の体が硬直した。
これは、演技なのか?
それとも、本当に彰が――。
「最後に、一つだけ聞いていいですか」
蓮が、いや、彰が私に近づいてきた。
いつの間にか、彼は完全に「彰」になっていた。
「あなたの夫は、どうやってあなたを抱きますか?」
その質問に、私は言葉を失った。
「それも……教える必要が?」
「もちろんです」
蓮の、いや、もう誰だか分からない男の手が、私の頬に触れた。
「完璧な復讐のためには、肌で覚えないと」
その瞬間、私の体が硬直した。
彰の指はいつも、私の肌を滑るだけだった。
まるでガラスの表面をなぞるように、冷たく、機械的に。私という存在の「表面」だけを撫でて、決して内側には入ってこなかった。
でも、この男の指は――。
蓮の指先は、私の肌に食い込むように熱い。
まるで私の体温を、いや、私という存在そのものを奪い取ろうとしているような、圧倒的な熱量だった。
「彰さんは……」
私は震える声で答えた。
「優しいんです。でも、どこか機械的で……触れているのに、触れていない感じがして」
「なるほど」
蓮は私の髪に触れた。
彰と同じように、頭の天辺から毛先まで、ゆっくりと撫でる。
でも、その手のひらから伝わる熱は、彰の手からは一度も感じたことのない、灼けつくような温度だった。
「じゃあ、こうやって髪を撫でる時も、形だけ、ってことですね」
「……はい」
蓮の手が止まる。そして、私の顎を持ち上げた。
「真由さん」
その声は、もう彰のものではなかった。
蓮の、本当の声だった。
「僕が演じるのは、あなたの知っている旦那様じゃない」
蓮は私の耳元で、低く囁いた。
「僕が演じるのは――あなたが一生かけても手に入れられなかった、『あなたを狂わせるほど愛する旦那様』です」
その言葉が、私の全身を駆け抜けた。
これは、復讐のための契約だったはずだ。
夫を陥れるための、ビジネスライクな取引だったはずだ。
なのに、なぜ。
なぜ、私の心臓はこんなにも激しく跳ねているのだろう。
「分かりました」
蓮は私から離れた。
だが、その目には何か、得体の知れない執着が宿っていた。
「では、明日から本格的な訓練を始めましょう。あなたの旦那様が帰ってくるまで、あと二日。その間に、僕は完璧に『彰』になります」
蓮は玄関へと向かった。
だが、ドアを開ける直前、振り返った。
「ああ、それと真由さん」
「……はい」
「次に会う時、僕のことを『彰さん』と呼んでください。どんな時も」
蓮は、彰の笑い方で笑った。
「そうしないと、あなた自身が本物と偽物を見分けられなくなってしまうかもしれませんから」
その言葉の意味を理解した時には、蓮の姿はもうなかった。
私は震える手で、自分の頬に触れた。
まだ、蓮の指の熱が残っている。
彰が何百回触れても残らなかった、焼きつくような熱が。
「……私は、何を始めてしまったの」
誰にともなく呟いた言葉は、静かな部屋に吸い込まれていった。
復讐のはずだった。
夫を地獄に突き落とすための、完璧な計画だったはずだ。
なのに、なぜ。
私の心は、もう誰に奪われようとしているのだろう。
本物の夫か。
それとも、偽物の――。
――第1話 了――
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