空白の履歴
棚か
第1話
世界は、誰かが捨てたゴミでできている。
私は、そう確信している。
週末の午後、厚い雲が街を低く覆うたびに、私は決まって郊外のジャンクショップを訪れる。
店の名は「拾遺堂(しゅういどう)」。煤けた看板、埃の匂い、そして死んだ電子機器が放つ独特のオゾン臭。
そこは、役目を終えたモノたちが積み上げられた、墓場と呼ぶにふさわしい場所だった。
私の趣味は、そこで手に入れた古いデジタルデバイス――カメラ、携帯電話、ボイスレコーダー――に残された、前の持ち主の消し忘れた断片を覗き見ることだ。
初期化されずに手放されたそれらの中には、見知らぬ誰かの生活の、あまりにも無防備な残滓が沈んでいる。
ピンボケの夕食、意味をなさない買い物リスト、酔った勢いで吹き込まれた鼻歌。それらは、持ち主が社会的な記号として生きている間には決して見せない、生々しくも空虚な「生」の排泄物だった。
私はそれらを蒐集し、深夜、一人きりの部屋で反芻する。他人の孤独をなぞることで、ようやく自分自身の希薄な存在を確認できるような、そんな歪んだ安らぎを感じていた。
あの日、雨は執拗にアスファルトを叩いていた。
店奥のワゴンの隅、古びたトランジスタや絡まったコードの山に紛れて、そのボイスレコーダーはあった。
鈍い銀色の筐体は、手のひらに載せると意外なほどの重量感があった。メーカー名は摩耗して判別できず、液晶画面には傷が走っている。しかし、電池を入れてみると、液晶は微かに青白く発光し、そこに「記録あり」という四文字を浮かび上がらせた。
思わず口角が上がる。
逡巡する間も無く、即決で購入する。
私はその冷たい感触をポケットに滑り込ませ、店を後にした。
帰宅し、部屋の灯りを消してデスクライト一つにする。外の雨音を遮断するようにヘッドホンを装着し、私は期待に胸を躍らせて再生ボタンを押した。
しかし、聞こえてきたのは、底知れない「無音」だった。
ファイル数は三十ほどある。どれも録音時間は数分から一時間とまちまちだが、スピーカーからは「さあー」という一定のホワイトノイズが流れるだけだ。誰の声もしない。物音すらしない。
不思議なのは、そのタイムスタンプだった。
通常、古い機器の日付は電池を抜けばリセットされるか、過去の特定の日時で止まっているものだ。だが、このレコーダーに記録されたファイルの日付は、すべて「今日」になっていた。
しかも、時計を確認するたびに、ファイルの日付も「今」に合わせて更新されているように見えるのだ。
「内部時計が狂っているのか……?」
私は呟き、レコーダーをデスクの端に置いた。
その夜、奇妙なことが起きた。
深夜二時。寝入り際、ふと視界の端で何かが光った。
デスクの上に置いたレコーダーの液晶が、青白く、脈打つように点滅している。録音ボタンがひとりでに沈み込み、赤いランプが点灯していた。何も触れていない。部屋には私以外、誰もいない。
私は起き上がり、レコーダーを手に取った。液晶には「REC」の文字。録音時間はすでに十分を超えている。
私はそれを停止させ、今の録音ファイルを再生した。
ヘッドホンから流れてきたのは、やはり静寂だった。
しかし、音量を最大まで上げると、ノイズの向こう側に何かが潜んでいることに気づいた。
……かさり。
紙が擦れるような音。
……しず、しず。
水を含んだ布が床を這うような音。
そして、規則正しい呼吸音。
それは、私の呼吸ではなかった。私よりもずっと深く、湿り気を帯びた、肺の奥が腐敗しているような重苦しい喘ぎ。
私は背筋を冷たい指でなぞられたような戦慄を覚えた。
この音は、どこから聞こえている?
部屋を見渡すが、六畳一間のアパートには、影以外に潜む場所などない。
翌朝、私はレコーダーをクローゼットの奥にある古いアタッシェケースにしまい込み、幾重もの衣類の下に隠した。
封じたのだ。
その日、仕事中も耳の奥で「さあー」というノイズが鳴り止まなかった。
夕刻、重い足取りで帰宅し、玄関の鍵を開けた。
暗い部屋に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
クローゼットの中に隠したはずのレコーダーが、ナイトテーブルの上に置かれていたのだ。まるで、私の帰りを待っていました、と言わんばかりに。
止めた方が良い。
理解していながら、私は震える指で最新のファイルを再生した。
再生してしまった。
そこには、私の留守中の「部屋の音」が記録されているはずだった。
最初は、いつもの無音だった。しかし、ファイルが半分を過ぎたあたりで、突如として明瞭な音が飛び込んできた。
それは、鍵が回る音。ドアが開く音。
私が今、たった数秒前に行った行為そのものだった。
だが、再生はまだ続いている。
一歩、一歩と足音が近づいてくる。
今の私の足音ではない。録音の中の何者かが、部屋の入り口から私の背後に向かって、ゆっくりと歩を進めているのだ。
そして、音は私の耳元で止まった。
『おかえりなさい』
心臓が跳ねた。
その声は、紛れもなく「私」の声だった。
だが、自分の声とは微妙に何かが違う。喉の奥に小石を詰め込んだような、あるいは磁気テープが劣化して歪んだような、感情の欠落した無機質な響き。
私は反射的に振り返った。しかし、背後にはカーテンの隙間から差し込む薄汚れた月光があるだけだった。
恐怖は、徐々に私の日常を侵食していった。
何とかしたかった。
しかし、駄目だった。
どれだけ手を尽くしたとしても、レコーダーは私の元に戻ってくる。
鏡を見るたび、自分の顔の輪郭が曖昧になっているように感じる。肌の色が褪せ、瞳の輝きがデジタルノイズのようにザラついて見える。
会社でも、上司の声や同僚の笑い声が、すべてレコーダーを通したような平坦な音に聞こえ始めた。私は自分が現実の世界にいるのか、それとも何処か得体の知れない世界に囚われてしまっているのか、判別がつかなくなっていった。
三日後の夜。私はついに限界に達した。
レコーダーを手に取ると、液晶画面には驚くべき数字が表示されていた。
「メモリ残量:0.1%」
このレコーダーが、何かを、私のすべてを記録し終えようとしている。
私は台所から金槌を持ち出した。こんなものは、壊してしまえばいい。
叩き壊して、ゴミ箱に捨てて、明日またジャンクショップに行って、別の誰かの人生を覗き見れば、すべては元に戻るはずだ。
今まで躊躇っていた行為を実行する。
私はレコーダーを床に置き、金槌を振り上げた。
「消えろ……消えてくれ!」
しかし、振り上げた腕は、空中で唐突に停止した。
見えない糸で吊るされたかのように、指一本動かせない。筋肉は弛緩しているのに、関節だけが何かに固定されている。
そのとき、レコーダーのスピーカーから、再生ボタンも押していないのに音が流れ出した。
それは、破壊の音ではなかった。
そこに記録されていたのは「未来」の音だ。
――ぐ、ちゃ。
何かが潰れる音。
――ずう、ずう。
重い肉塊が引きずられる音。
そして。
「……あ、あ、あああぁぁぁ……」
聞いたこともないような、絶望の淵から搾り出された、異質な悲鳴。
それは私の声だった。いや、かつて「私」という記号を背負っていた肉体が、その機能を喪失していく瞬間の最後の震えだった。
私は気づいた。
このレコーダーは、過去を記録するものではなかったのだ。
それは、対象の「存在」そのものを吸い込み、磁気データへと変換していく、魂の蒸留器だったのだ。
私が他人の断片を覗き見ていたとき、私は彼らの残骸を消費していた。今度は、私が消費される番なのだ。
私の指先から、感覚が消えていく。
視界が白黒のノイズに塗り潰されていく。
金槌を握っていた手のひらは、いつの間にか銀色のプラスチックのような質感に変わり、皮膚の毛穴は一つ一つ、無機質なマイクの穴へと変質していた。
私が「私」であった記憶は、次々とデジタルファイルへと圧縮され、私とレコーダーは一つとなっていく。
最後に残ったのは「私」という意識だけだった。
それさえも、液晶画面に表示された「100% 録音完了」という冷徹な文字とともに、深い闇へと沈んでいった。
※
部屋は、深い静寂に包まれた。
デスクの上には、一台の銀色のボイスレコーダーが残されている。
住人のいなくなった部屋で、雨音だけが虚しく窓を叩いている。
一週間後。
ジャンクショップ「拾遺堂」の店主は、身元不明の遺品整理業者から持ち込まれた段ボール箱を開けていた。
その中から、一台の古いボイスレコーダーを取り出す。
「……ん、まだ動くな」
電池を入れると、液晶が青白く光った。
「記録あり」の表示。
店主は動作確認のために再生ボタンを押した。
聞こえてくるのは、静かな、あまりにも静かな無音。
ただ、ノイズの奥の奥に、誰かがノートにペンを走らせる音と、時折混じる「誰かに似た声」の寂しげな笑い声だけが、延々と記録されていた。
「動作未確認……百円、いや、五十円でいいか」
店主は無造作に、表のワゴンへとレコーダーを放り投げた。
雨は止み、灰色の空からわずかな光が差し込んでいたが、その光さえも銀色の筐体に吸い込まれ、反射することさえなかった。
ワゴンの前を、一人の男が通りかかる。
男は足を止め、埃を被った銀色の機械を手に取った。
「……面白そうだな」
男は呟き、レコーダーをポケットに滑り込ませた。
新しい履歴が、再び動き始めた。
今度の空白は、誰の人生で埋められるのだろうか。
世界は、誰かが捨てたゴミでできている。
そして、そのゴミこそが、私たちの真実の姿なのかもしれなかった。
空白の履歴 棚か @tatananakaka
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