第四章:生成する自由

 第四章:生成する自由


 姨捨の夜明けは、すべてを黄金色に染め上げた。サトウが命じたドローン群は、もはや制圧兵器ではなく、棚田の生態系を構成する一部——鋼の羽を持つ「益虫」のように、静かに朝露の降りた稲穂の間を回遊していた。


 東京の指令室。


 サトウは、自分の指がキーボードから離れていることに気づいた。モニターを埋め尽くす『効率化達成率:0%』の赤いアラート。かつての彼なら絶望したはずのその数字が、今は朝日を反射する水面のように、ただ静かに輝いて見えた。胸の奥を閉ざしていた冷たい回路が焼き切れ、そこから抑えようのない熱い何かが溢れ出していくのを感じていた。


「サトウさん……」


 カイの声が、デバイスを通じて届く。


「僕たちは、システムを壊したんじゃない。システムを、もっと大きな物語に繋ぎ直したんです」


 サトウは深く椅子に身体を預け、震える声で答えた。


「……認めざるを得ないな。管理しようとすればするほど、私はあの泥の温もりから遠ざかっていたようだ。父が、なぜあの日、泥にまみれて笑っていたのか……今、ようやく分かった気がする」


 サトウは静かに退官届をシステムに送信した。それは彼にとって、管理される側、あるいは管理する側という二元論からの、初めての脱出だった。


 数ヶ月後。


 姨捨での出来事は、瞬く間にライス・ネットワーク(RN)を通じて全国へ、そして世界へと波及した。政府は「不感地帯」への介入を断念せざるを得なくなった。なぜなら、あまりにも多くの市民がRNに接続し、自らのバイタルデータを「稲の成長」と同期させることで、空虚症(ヴォイド・シンドローム)からの回復を遂げていたからだ。


「効率」は、もはや目的ではなくなった。それは、人間が「生命の働き」に没頭し、太陽と水の間に流れる時間を楽しむための、単なる「手段」へと再定義された。


 都市の風景からも、刺すような直線が消え始めていた。カイがかつてアルゴリズムの刃で切り裂いた『公園の売店』跡地は、今や呼吸する緑の建築へと生まれ変わっている。そこではハイドロポニックスのパイプを流れる水の音が、人々の歩幅に合わせてそのリズムを変える。ミズキが提唱した『方円のアルゴリズム』によって、テクノロジーはもはや人を導く鎖ではなく、寄り添う皮膚となったのだ。


 カイは今、姨捨の棚田に立っている。VRではなく、本物の泥の中に。隣には、ミズキがいた。彼女は、かつてのように小さな苗をカイに差し出した。


「カイ、見てごらん。水は器に従って形を変えるけれど、その本質は決して損なわれない。自由とは、独りよがりに自己を主張することではなく、この巨大な生命の循環という大きな器に、自らを委ねることなんだよ。流れに逆らわず、流れの一部になったとき、人は初めて、どこへでも行ける透明な力を持てる。稲が私たちに教えてくれたのは、固定された自分を捨てる『生成し流動する自己』の喜びなんだ。」


 カイは苗を受け取り、ゆっくりと腰を落とした。空を見上げると、そこには父のような力強い太陽があり、足元には母のような優しい水があった。カイはふと、遠い空の向こうで数字に消えていった父に語りかけるように呟いた。


「お父さん。あの頃の僕が作った粘土細工のように、不格好で、非効率で、でも……世界で一番贅沢な『無駄な時間』の中に、僕は今、生きているよ。」


 泥の中に苗を沈める。指先に伝わる土の抵抗感、水の冷たさ、環境の変化に対応し流動する生命の感触。それらすべてが、カイという一つの生命の中で「ひとつ」に溶け合っていく。かつて失われた「生活」も「文化」も、形を変えて、今ここから再び育ち始めていた。


 稲穂が垂れるとき、それは自らの重みで折れるのではない。太陽と水の愛を受け、あまりに豊かに実ったその喜びを、大地へと捧げているのだ。


 カイは、穂先を揺らす風の重みに自らの存在を重ねるように、静かに、そして確かな生命の感触を込めて次の苗を植えた。一歩退くたびに波紋が広がり、空の青を映す水面を揺らす。そこには、誰にも計算されることのない、ただひたすらに生成し続ける、果てしない自由の海が広がっていた。

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命のOS 方円の理 再起動された未来の米作り 御園しれどし @misosiredosi

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