第三章:方円の抵抗
第三章:方円の抵抗
姨捨の夜は、都市のそれとは全く異なる密度を持っていた。漆黒の闇の中、ライス・ネットワーク(RN)を通じて接続された数万の意識の明滅が、土地の呼吸と同期するように棚田を包み込んでいる。それは回路でありながら、同時に一つの巨大な生命体としての体温を放っていた。
「来たよ、カイ。心の準備はいいかい」
ミズキの静かな声と同時に、北の空から不快な高周波音が響いてきた。サトウが放った政府の広域制圧ドローン群だ。数百機の機体が、完璧な編隊を組んで棚田へと迫る。それらは「効率」という名の剣を携えた、鋼の稲妻だった。東京の指令室で、サトウは冷徹にモニターを凝視していた。
「ターゲット確認。姨捨第1から第12棚田。物理的介入を開始せよ。障害物はすべて排除して構わん」
レーザーが触れた箇所から焦げた土の匂いが立ち昇り、悲鳴のような水蒸気が夜の静寂を切り裂いた。代々受け継がれてきた石積みが無残に砕け散る音が、カイの足元を揺らす。サトウの画面には、土地が「整理」されていく様子が青いグリッドで表示されていた。彼にとってこれは破壊ではなく、不確定要素を排除し、管理可能な未来を構築するための「手術」だった。
「ミズキさん! このままじゃ田んぼが……!」
カイが叫ぶ。だが、ミズキは動じなかった。彼女は泥の中に深く素足を沈め、静かに目を閉じていた。
「カイ、水に逆らってはいけない。水は器に従い、器を包む。強情な鉄を溶かすのは、さらなる熱ではなく、ただ静かに寄り添い流れる水の忍耐なのさ。彼らの冷たい計算の中に、この土地が持つ数千年の律動を流し込むんだ。」
カイは意識を沈め、電子の海と泥の深淵が交差するRNのコアへと潜行した。視界に走る青いコードは、いつしか稲の根が水を吸い上げる毛細管現象のような、複雑で美しいフラクタル図形へと変容していく。
彼が構築した『方円のアルゴリズム』が起動する。それは敵を攻撃するためのプログラムではない。敵が放つ「管理の信号」を、稲の成長サイクルや水の循環という、より巨大で複雑な「生命の律動」の中に優しく誘い込み、同期させるための回路だった。
ドローン群が棚田の真上に到達し、除草剤と管理用ナノマシンを散布しようとしたその瞬間、異変が起きた。ドローンたちの姿勢制御システムが、突然「迷い」を始めたのだ。
サトウのモニターが赤く点滅する。
「何だ……? 妨害電波ではない。奴ら、システムを書き換えているのか?」
違う。カイたちがやったのは、書き換えではなかった。ドローンのセンサーが、棚田を流れる水の微細な振動や、稲が発する微弱な生体電位を「最優先の管理データ」として誤認するように誘導したのだ。
ドローンたちは、もはやサトウの命令に従わなかった。それらは、風に揺れる稲穂の動きに合わせて優雅に舞い、水の流れを妨げないように高度を変え始めた。数百の機械が、一つの巨大な生命体の一部であるかのように、棚田の曲線に「従い」始めたのだ。
「……バカな。機械が、自然に同調しているというのか」
サトウは椅子から立ち上がった。モニターに映し出される光景は、彼がかつて憎んだ「泥臭い農業」ではなかった。冷徹な直線で構成されていたはずのドローンの軌道が、棚田の描く柔らかな曲線に溶け込んでいく。それはサトウが理想とした『完璧な管理』を超えた、生命という巨大なシステムの一部として完成された、神々しいほどの機能美だった。
カイはRNを通じて、サトウの意識へと直接語りかけた。
「サトウさん。あなたはかつて、自然の暴力から人々を救いたいと言いましたね。でも、支配することだけが救済じゃない。流れに従い、その中で共に生きる。それが、稲が僕たちに教えてくれた『自由』なんです」
サトウの脳裏に、かつての光景が蘇った。冷たい雨の中、泥にまみれて稲を撫でていた父の背中。あの時、父は自然に負けていたのではない。父は、自然という巨大な物語の一部として、必死に、そして誇り高く「生きて」いたのだ。
サトウの指が、次の攻撃命令のキーの上で止まった。その瞳には、ディスプレイの青い光ではなく、RNを通じて送られてきた、月明かりに照らされる美しい棚田の情景が映し出されていた。
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