第二章:太陽と水の記憶

 第二章:太陽と水の記憶


 カイが姨捨おばすての泥に触れてから、一週間が経過した。ライス・ネットワーク(RN)を通じて共有される感覚は、カイの脳内に静かな革命を起こしていた。都市の「最適化」という直線的な時間軸とは異なる、円環を描く「稲の時間」。カイは、苗を植える指先に伝わる抵抗感の中に、かつて失った「手触りのある世界」を取り戻しつつあった。


 しかし、そのネットワークの設計者であるミズキの瞳には、時折、深い淵のような暗い色が宿る。


「ミズキさん、どうしてこんな精緻なシステムを作ったんですか。あなたの技術があれば、もっと別の、今の社会に受け入れられる形で利益を出すこともできたはずなのに」


 夕暮れ時、田んぼの畦に腰掛けたカイが問いかける。ミズキは、泥のついた手を川の水で洗いながら、遠い山脈を見つめた。


「……私はね、カイ。かつては今の君と同じ、いや、君以上に『効率』という神様を信じていたんだよ」


 ミズキの独白は、重い記憶の蓋を開けるように始まった。二十年前、彼女は政府直属の「農業工業化プロジェクト」のチーフエンジニアだった。彼女が開発した『ゼウス・システム』は、天候、土壌、遺伝子を完璧に管理し、自然という不確定要素を完全に排除することを目指していた。


「あの日も、今日のような夕暮れだった」


 未曾有の超巨大台風が日本列島を襲った。最新の予測AIは「堤防の決壊確率0.02%」と算出し、ゼウス・システムは通常通りの稼働を命じた。しかし、自然は数字の枠には収まらなかった。予測を超えた降雨量が、一瞬にして農区を濁流に変えた。


「システムは……完璧だった。完璧すぎて、『想定外』というバグに対応できなかったんだ」


 制御室に響く無機質なアラート音と、厚いコンクリート越しに聞こえる濁流の、地鳴りのような轟音。そのコントラストが、絶望を際立たせていた。マニュアルに従って閉鎖された防水ゲートが、避難しようとした夫と息子の車両を閉じめた。システムは「農作物の保護」を最優先し、人の命をノイズとして処理したのだ。


 ミズキが必死に手動介入を試みたとき、画面には『最適化処理中』という冷たい文字が躍るだけだった。それは、かつて彼女自身が「最も視認性が高く、信頼感を与える」として選んだフォントと、鮮やかな青色だった。その機能美が、今はただ、彼女を突き放す冷徹な刃となった。


「泥の中で息絶えた息子を抱き上げたとき、私は気づいた。私たちは自然を制御しているのではなく、自然という巨大な生命のシステムの中に、ほんの少しの場所を借りて生きているだけなのだと。


 水は方円に従う。形を変え、流れに従うことで、水は最強になる。それに逆らおうとした私の傲慢さが、すべてを奪ったんだ」


 ミズキがその悔恨の中から生み出したのが、RN(ライス・ネットワーク)だった。それは管理するための道具ではない。人間が再び「生命の働き」に身を委ね、共生するためのインターフェースだ。


 その頃、東京の農水省推進局の一室では、冷たい青白い光の中でサトウがモニターを見つめていた。彼の前には、長野県姨捨地区の三次元スキャンデータが浮いている。


「非効率の極みだな」


 サトウは吐き捨てるように言った。彼にとって、農業の近代化は単なる産業政策ではなく、全人類に向けた「救済」だった。


 かつて東北の山間で過ごした幼少期。冷害が続く年、サトウは父が深夜に田んぼに立ち、冷たい雨に打たれながら土下座をするように稲を撫でる姿を見て育った。祈っても、尽くしても、空から降る気まぐれなひょう一つで、その年の学費も、食卓の肉も、すべてが消え去った。銃声のような音を立てて降り注いだ氷の塊は、翌朝、瑞々しかったはずの稲を無惨な骸へと変えていた。


 泥の中に横たわる、首の折れた稲穂の姿。サトウはその光景を、死体安置所のようだとさえ思った。母はひび割れた手で泥にまみれたクズ米を研ぎ、自分たち兄弟に「自然の恵みに感謝しなさい」と虚ろに微笑んだ。


「恵みなどではない。あれは呪いだ」


 サトウはそう確信していた。天候という気まぐれな神に人生を弄ばれ、泥を啜るようにして生きる。そんな不確定な世界に人間を留めておくことのどこが美しいのか。彼にとって「自然への畏敬」とは、弱者が自らを納得させるための言い訳に過ぎなかった。人間を救えるのは、感情でも祈りでもない。完璧に計算された管理と、自然の暴虐をねじ伏せる鋼のシステムだけだ。


 ふと、数日間顔を合わせていない妻と娘の顔が脳裏をかすめたが、即座に意識の隅へ追いやる。それもまた、完璧な秩序を維持するための「必要な犠牲」だと自分に言い聞かせながら。


「一ノ瀬瑞穂(ミズキ)……。博士、あなたは過去の遺物に固執しすぎだ。情緒で人は救えない。救えるのは、予測可能な未来だけだ」


 サトウは右手を動かし、姨捨地区を「完全自動化農区」へと強制統合するための執行コマンドを準備した。彼の指先に迷いはなかった。彼にとって、不確定な自然に身を任せるミズキたちの行為は、人類の進歩を阻み、再び人々を飢えと恐怖の時代へ引き戻そうとする「病」に等しかった。


「ドローン部隊、出動準備。ターゲットは姨捨不感地帯。一ノ瀬瑞穂の身柄確保と、非公認サーバーの物理的破棄を」


 サトウの冷徹な命令が、静かな深夜のオフィスに響いた。一方は生命の調和を、もう一方は鋼の秩序を信じている。相容れぬ二つの世界が、今、姨捨の静寂を引き裂こうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る