むのう


小説投稿サイトでの実験に

夢中になっていた頃、


川色歩夢は完全に現実から

目を背けていた。


その間に、最も身近な家族に

異変が起きていた。


母親が一週間も発熱が続いているのに気づかなかったこと。


妹の奈緒が、もう一週間も家に帰ってきていないこと。


罪の意識に苛まれ、現実から

逃げていた歩夢は、ようやく我に返る。


歩夢はまず母親を病院に連れて行った。


診断は、風邪から悪化した

肺炎との事。


しばらく入院が必要となった。


母親を預けた後、

歩夢は菜緒に連絡を試みる。


しかし、電話を何度かけても

繋がらない。


そして、歩夢の携帯に残された古い留守番電話のメッセージを再生した。


菜緒の震える声で

「誰かに追いかけられている…助けて。」

という、悲痛な叫びが残されていた。


歩夢は警察に駆け込んだが、

そこで聞かされた事実に、

歩夢は心が、再び崩壊する。


警察官に連れて行かれたのは、身元不明の

遺体安置所だった。


そこに横たわる遺体は、見るも無残な傷と


アザに覆われ、


顔は形もわからないほど


殴打されていた。


「まさか、菜緒じゃあないですよね?」

歩夢は震える声で警察に問う。


無言で警察官が差し出したのは、見覚えのあるカバンだった。


そして、それに着けられた

くまモンのキーホルダー。


キーホルダーには、歩夢が幼い頃、汚い字で書いた「なお」という文字が刻まれていた。


歩夢は、心に冷たくそして全てを焼き尽くす炎が全身を震わせた。


怒りの矛先は、犯人と、

そして…。


最も大切な時に菜緒の異変に

気づかなかった自分自身に

向けられた。


犯人への復讐心に駆られた歩夢は、

菜緒のカバンを漁った。


その中から、一枚のレシートと、その裏に

書かれた謎のメモを見つける。


メモには、「口紅1本」「ストロー」「三時まで」という、不可解な言葉が走り書きされていた。


歩夢は警察にそのメモの情報を確認したが、警察は「わからない」という嘘で答えをはぐらかした。


歩夢は、菜緒とは関係のない話題をわざと振ることで、警察官の頭の中に流れる真実の声を探った。


聞こえてきた声から、容疑者が

菜緒の会社の同僚だという事。


そして証拠がないために

動けないでいる事を知った。



歩夢は、能力を


(人間を操る)為ではなく、


(償いと復讐)の為に使う事を


決意して、その同僚に会いに行った。


対面した直後、歩夢の背中に

強烈な寒気が襲った。


それは、純粋な殺意と悪意、

そして、幼い頃に父から受けたものと同じ

暴力的な衝動が混ざった声だった。


歩夢は、同僚の複数の思考を分析し、

確信を得るための声を探った。


すると、同僚の頭の中に、菜緒の泣き叫ぶ

ような悲鳴が鮮明に流れ込んできた。


「間違いない」歩夢は、同僚が犯人だと確信した。


その夜、歩夢は同僚を呼び出し、殺害した。


しかし、歩夢が聞こえた声の正体は、

菜緒の悲鳴ではなかった。


それは、同僚の奥さんが、夫(同僚)から

受けた家庭内暴力に対する、過去の泣き叫ぶ声だった。


歩夢は、心の声という能力で

得た情報を、復讐心と先入観によって

誤って解釈したのだ。


歩夢は、父親の暴力を恐れていたにもかかわらず、


父親と同じ様に過ちを犯す。

そう、真犯人ではない人間に

手をかけた。


そして、その全てを、同僚の奥さんが

見ていた。


歩夢は、捕まる覚悟決めて

同僚の奥さんを見逃す。


しかし奥さんは、

歩夢の殺害行為を

見ていたにもかかわらず、


警察の取り調べに対し、

嘘の証言者として歩夢を庇った。


「これで、か…れる…。」という、心の声が歩夢の頭に響いた。


歩夢は、妹を守れず、そして

悲劇から、殺人者となった。


そして、なぜ被害者の妻が

殺人現場に居合わせた理由が

分からずにいた。



川色歩夢は、妹の敵だと…。

信じて殺害した相手は、別の悪意だった。


なぜか後悔はそれほど

していない。


今は一つの疑念が、歩夢の


思考を遮る。


それは被害者の奥さんが

自分を庇った理由。


そして彼女が殺人現場に

居合わせた理由が理解できずにいた。


歩夢は、この女性の真意を探るべく、

分析を試みる。


その瞬間、歩夢を


異変が襲った。


この女性の声が、


いや…。思考の声が


そう、聞こえないのだ。


そして、女性だけでなく、

今まで当たり前に歩夢の頭の中で

傍にいてくれた。


協力してくれていた内なる者達も、

一切の言葉を発しない。


歩夢は、今まで頼りにしてきた


仲間たちが、いない事に焦り


そして不安で心が重くなる。


一人になる恐怖で、

歩夢の頭の中は情報の大渦から

一転、深い暗闇に染まった。



歩夢が心を乱しているのを

見透かしているかの様だった。


旦那を殺害された、奥さんは、

何かを試すかの様に

歩夢の両手を優しく握った。


彼女は、歩夢の眼を真っ直ぐに見つめ、

静かに囁く


「大丈夫、あなたの敵ではないから……。」


それだけ言うと、彼女は踵を返し、

家路へ帰って行った。


歩夢はその言葉の裏も、

彼女が何者なのかも分からずに、

再び臆病な自分に戻ってしまった。


能力を失った歩夢は、

無力な一人の人間以下になる。


それは歩夢にとって屈辱だろう。


能力を使えない歩夢に残されたのは、

菜緒のカバンで見つけた


(口紅1本)、(ストロー)、(三時まで)


と書かれたレシートだけだ。



歩夢は分析の力に頼らず、

そのレシートの文字をひたすらに眺める。


何度も、何度も、何度も、何度も、考えた。


だが、まるで暗号のような言葉の意味も

解き明かせない。


歩夢は自分の無力さに嘆き、

いっそ死のうかと考えた。


麻のひもを結んでは、

「妹の敵を討ちたい」という

どす黒くうす汚い復讐心が

邪魔をして、ひもをほどく。


結んでは、ほどくを繰り返し、

ひもは、ぼろぼろになった。


その時、頭の中にいる者の

一人が、歩夢の絶望を不憫に思ったのだろうか…。


それとも歩夢の潜在意識が

極限状態で何かを、閃いたのだろうか、

一言、歩夢に伝えた。


「その文字は本当に見たことが無いのか?」


歩夢が「どういうことだ?」と聞いても、

その者は、もう答えてくれない。


この文字をどこで……?


必死に記憶を辿ると、

一つの光明が照らす。


歩夢が小説投稿サイトで

死に追いやった作家の、

ミステリー小説に書かれていた

文章に酷似していたのだ。


そのミステリーは、

妹を凶悪犯に殺害された、兄が探偵として

犯人を追い詰め、最後には犯人に返り討ちに合うという、悲劇的な物語だった。


正直、あの時、

歩夢にとって文章の分析が目的だったので、小説の内容など、どうでもよかった。


もしこれが、


自殺した作家の関係者が、


歩夢の人間操作に気付き


仕返しでやったことならば、


全てがつながる可能性がある。


もしそうならば、相手も歩夢と同じように

心理分析ができ、性別や住んでいる

場所も特定できるほどの、

恐るべき能力者だという事になる。


能力も仲間も失い、歩夢の傍には、罪の意識と、殺人犯という現実だけがつきまとう。


歩夢は今、孤独な状態で、

大切なものを奪った狡猾な執行人、

と対峙しようとしていた。


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