第2話:魂の適正価格

「け、契約……?」

 健太は震える声で尋ねた。  状況は理解できないが、死の恐怖だけは本能的に理解できた。

「そうだ。簡単な契約だよ。私が指を鳴らせば、このエレベーターは安全に一階まで降りる。君の命は助かる」 「そ、その代償は?」 「君の『魂』だ。死後、君の魂を私が頂く。それだけだ」

 悪魔は虚空から一枚の羊皮紙を取り出した。  そこには血のように赤い文字で、びっしりと契約文言が書かれている。

「さあ、サインをしたまえ。そうすれば命だけでなく、富も名声も思いのままだ。君をこの会社の社長にしてやることもできるぞ?」

 悪魔は口角を吊り上げ、誘惑の笑みを浮かべた。  死の恐怖と、甘い誘惑。普通の人間なら、ここで泣きついてサインをするだろう。  だが。  佐藤健太は「普通の人間」ではなかった。  彼は、入社以来半年間、月百二十時間の残業とパワハラに耐え抜き、精神の摩耗と引き換えに異常な「社畜思考」を手に入れた、悲しきモンスターだったのだ。

 健太は立ち上がり、膝の埃を払った。  そして、真顔で悪魔に尋ねた。

「質問いいですか」 「ん? なんだね。金が欲しいのか? 女か?」 「いえ。その『社長にしてくれる』というオプションですが、それを行使した場合、私の睡眠時間は増えますか?」

 悪魔の笑顔がピクリと固まった。

「……は?」 「いや、今の社長を見てると、毎日接待だの会食だので夜中まで拘束されてて、休日もゴルフで潰れてるんですよ。社長になっても激務なら、あまり魅力を感じないなと」 「い、いや、富が得られるのだぞ? 金があれば何でも……」 「金を使う暇がないなら意味ないですよね。現状でも給料は口座に溜まる一方なんで。使う暇がないから」 「……」

 悪魔は少し困惑した様子を見せた。  だが、すぐに気を取り直す。

「まあいい。社長になりたくないなら、別の望みでも構わん。とにかく、サインをすれば助けてやる」 「その『魂を頂く』という条件について詳細を伺いたいんですが」

 健太はスマホのライトで羊皮紙を照らし、契約書を読み込み始めた。

「魂を譲渡した場合、私の肉体はどうなります? 就労可能ですか?」 「も、もちろんだ。死ぬまでは普通に生きられる。死んだ後に魂をもらうだけだ」 「魂がない状態での労働災害、いわゆる労災認定は降りますか?」 「は?」 「魂が抜けた状態で過労死した場合、それが『魂の欠落』によるものなのか『業務』によるものなのか、因果関係の証明が難しくなりませんか? 会社側から『もともと魂売ってたんでしょ?』って責任逃れされたら困るんです」

 悪魔は口を開けたまま、瞬きをした。

「き、君は何を言っているんだ? 死後の話をしているのだぞ?」 「死後の話も重要です。地獄に連れて行かれるんですよね? そこの労働環境はどうなってます? 週休二日は? 三六協定は守られてますか?」 「地獄に休みなどあるわけなかろう! 永劫の責め苦だ!」 「うわ、ブラック確定じゃないですか。今の職場より酷いとか、転職するメリットないですよ」

 健太は呆れたように肩をすくめた。  悪魔の頬が引きつる。

「き、貴様……死ぬぞ? あと十分もないんだぞ? 四の五の言わずにサインしろ!」 「死にたくはないですけど、変な契約結んで死ぬより酷い目に遭うのは御免です。契約内容は精査させてもらいます」

 健太は胸ポケットから赤のボールペンを取り出した。  それは、上司から理不尽な赤入れをされ続けた彼が、いつしか身につけた「自己防衛のための校正スキル」の発動だった。

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