5. 奇跡の終焉




 それから、数年の月日が流れた。


 かつて世界を震撼させ、私たちの生活を根底から突き崩したCOVID-19は、今や日常の風景に溶け込み、数ある感染症の一つとしてその姿を変えた。


 流行の兆しも、今ではコロナよりインフルエンザの動向を追う日々へと戻っている。あんなに恐ろしかったはずのウイルスは、喉元の棘が抜けるように、静かに「ありふれた病」の列に並び直した。

 

 私はあの最前線で、ウイルスが牙を剥き、そして少しずつその輪郭を失っていく変遷を最後まで見届けた。同僚たちが次々と感染し、あるいは精神の糸が切れて現場を去っていく中、私は一度も罹患することなく、役割を終えて臨床を離れた。


 それは決して幸運だったという晴れやかなものではない。むしろ、あれほどの汚染と怒号の中に身を置きながら、最後までウイルスにすら拒絶され続けたような、何か得体の知れない運命に弄ばれていたような、奇妙な空虚さを伴う奇跡だった。

 


 今、私の鏡に映る顔に、N95マスクが食い込んだ痛々しい跡はない。

 

 けれど、ふとした瞬間に、皮膚の奥底が熱を帯びることがある。アルコール消毒を繰り返し、潤いを失って白く毛羽立った手のひらの感触。防護服という密室の中で、拭うことを許されず、ただ体表を滑り落ちていったあの汗の熱さ。

 

 それらは今も、私の細胞一つひとつに深く刻まれ、消えることのない「戦痕」として残っている。

 

 街ですれ違う人々は、もうあの狂乱を忘れ、マスクを脱ぎ捨てて笑い合っている。それでいい。喉元を過ぎた熱さを忘れ、健やかに日常を謳歌すること。


 それこそが、私たちが地獄のような日々の中で、身を削りながら守り抜こうとした「平和」の正体なのだから。


 私は願わずにはいられない。

 

 あの青い防護服の檻の中で、私たちが何を捨て、何を守ろうとしていたのか。


 あのような悲劇が、二度と繰り返されないことを。


 そして、あの地獄を共に生き抜いた名もなき戦友たちが、今は静かな夜を過ごせていることを、心から願っている。


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ブルーインパルスが空を舞う下で、私は吐瀉物にまみれていた――地方病院ER、コロナ禍の記録 お月見ましろ @cccusako

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