水鏡

 雪が「少し、庭を散歩しようかな」というから、椿は「ええ」とうなずいた。

 外の雪は夜にまた降りだして、それからずっとやんだり降ったりを繰り返していた。陽がすっかりのぼった今は、降っていない。


 椿は雪の体に、深い茶色の二重回しコートを重ねた。

「少し庭に出るだけだよ」

「それでも、風邪をひかれてはいけませんから」

 雪はちいさく笑った。その少し恥ずかしそうな様子が愛おしくて、彼に抱きつきたくなった。


 椿は雪の手を握って、ゆっくりと歩いた。

 彼は雪に、「廊下に出ますよ」とか「玄関ですよ」とか、逐一声をかけた。


 陽のひかりを浴びた白い庭がまぶしくて、椿は目を細めた。椿は、自分よりずいぶん高いところにある雪の横顔をうかがった。彼はおだやかに微笑んでいる。


 椿は改めて、雪の手を握った。「少し深く積もっていますからね」

「ああ、ありがとう」


 積もった白を踏むと、さく、と音がした。ひとつ、ふたつ、ふたり並んで足跡をつけていく。

「陽が、あたたかい」

「ええ、そうですね」

「おまえのように、あたたかい」

 椿はただちいさく笑い返した。


「これだけあたたかいと、池はこおってないのかい」

「確認してみましょう」


 椿は雪の手を握って、足元に積もった白にゆっくりと足跡をつなげていく。さく、さくと鳴くまばゆい白の、その名前は意識しないでおいた。

 池のそばへきた。雪の手に微妙な力を伝えて、少し手を離すことを告げた。雪はそっと椿の手を離した。

 椿は池のそばにしゃがんで、水に手をいれた。陽があたっていても痛いほど冷たい。ふとみると、みのもがゆれるのに合わせて自分の顔が歪んで映っていた。腹の中を強く掴まれたような感覚になって、体がふるえた。思わずあとじさって、水が音を立てた。


 やさしい手が、背にふれた。「氷ってはいないようだね。でもとても冷たそうだ」

 椿はすぐ左側にしゃがんでいる雪の横顔をみた。やさしさが目にみえるものであったなら、こんな姿形をしているのではないかと思えた。

 けれども、彼のとなりにいることが怕くなった。

 水に、化け物が映った。自分自身という化け物。彼の優美さには、とても似つかわしくない、醜い化け物。


「私があたためてやろう」

 やさしい声はすぐに手を伸ばしてきて、椿の手をつつんでしまった。ふだんはあんなに冷たく感じる雪の手が、陽だまりのようなぬくもりを帯びていた。

「ああ、こんなに冷えて……私のわがままに付き合わせてしまったばかりに」

「いいえ、とんでもない……」

 雪が気を遣っているのが、いやというほどわかった。雪は繊細で敏感だから、きっとこの恐怖に気づいている。水鏡に映った、赤く焼けた顔の化け物に抱いた恐怖を、きっと知っている。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「謝ることはないよ。ああ、こんなとき、おまえの様子をみることができたならいいのだけれど」


 全身が心臓になったようだった。というのも、心臓がふるえるのといっしょに、体もふるえたのだ。

 みる? 雪さまが? 水に映ったような化け物の姿を?──


 のどが鳴いたときにはもう、椿は雪の手のぬくもりから手を引き抜いていた。

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