雪椿
白菊
白雪
「雪が」と彼がいった。
椿は薄い胸の中でとくんと音を立てて、くちびるで、はっと息を鳴らして、まぶたをふるわせた。
ゆき!──
彼は、「降っているのかい」とつづけた。
部屋はまったくの沈黙に包まれていた。風が吹くことも、屋敷がきしむことも、積もった雪が瓦から落ちてくることもなかった。
椿は主人──
椿はそっと立ちあがって、畳を踏んで障子に近づいた。沈黙した部屋には、着物や体や畳の立てる音がうるさく響いた。
障子が開く音もおおきく響いた。
濡れ縁の先、庭は真っ白になっていた。庭よりも少し暗い色をした空は、また羽みたいにふわふわした白を、沈黙を保ったままで落としてきていた。
椿はその白をかぶった風景に映える紅い花をにらんだ。
名前も、顔の色もおなじでありながら、花の方は彼の得られない、雪の抱擁を満足に受けている。純白の安らぎに恍惚としただらしない姿を、これみよがしにさらしている。
椿は少しの間、広い庭をおおう
「そうか」
「どうして、わかるのですか」
椿が振り返ると、雪は口元に微笑をたたえて少し下を向いた。動きに合わせて肩からすべり落ちた彼の長い黒髪が、ほんのかすかな音を立てたように感じた。
「音が」と彼はいった。「音が、聴こえるんだよ。雪の降る音が」
彼は着物の動く音を立てて、椿の方へ手を伸ばした。椿は「ええ、雪さま」と答えて、彼のもとにもどった。畳に膝をつく前に、彼の細くておおきな手にふれた。椿のとは違う、冷たい手だった。椿はその手を胸に抱いたり、口元へ持ってきて、さっき手先でした愛撫をくちびるでしたくなったりした。
雪が微笑みといっしょに吐息をこぼして、椿の胸が鳴った。
「おまえの手はあたたかいね、いつも」
椿は自分の手をみて、眉根を寄せた。雪のとは違う、茶色っぽい痕のついた手。椿はこれも好きじゃなかった。
雪が椿の手の中を抜け出して、腕をあげた。それが頬に近づいてくると、椿は思わず首をすくめた。
「すまない」と悲しそうな声がささやく。「
「ごめんなさい。雪さまが、決して、雪さまが怕いのではないのです」
「私にふれられることが怕いのだ。おまえは以前、そういった」
椿はうなずいて、「ええ」とささやいた。
「それでもおまえは、いつも私にふれてくれる。このあたたかな、かわいい手で」
「ええ」
「おまえが私にさわってくれることと、私がおまえにさわることとでは、なにか違いがあるのかい」
「ええ」
また、部屋が沈黙した。もっとも、雪には降雪の音が聴こえているのだろう。
彼は今度、「髪を」といった。「なでてもいいかい」
椿は薄い胸に春の陽ざしを抱いて、「ええ」と答えて雪の体へ顔を寄せた。雪は椿の大好きな手で髪をなでて、頭を抱いてくれた。
部屋が静かだから、こうして近くにいるから、雪の鼓動が聴こえた。雪の体温が、椿を満たした。
けれども雪の体温は椿の体温よりいくらか低いようで、鼓動もまた、椿のものよりおだやかだった。
体にやさしさが絡みついた。着物とその奥から香る雪のぬくもりが、一層近くになった。椿は吐息をふるわせた。
「ああ、雪さま!……」
彼がかすかに笑ったような気がして、椿の熱はますます高まった。
「いけません、雪さま、こんなふうにしていては、私!……」
「いけないことなんてあるものか」
「いいえ、雪さま……いけないのです……」
椿は雪の、ほとんど白みたいな色気の、青の着物を掴んだ。
「だって……」こんなふうにしていては、こんなふうにされていては、期待してしまうのです──。
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