第3話 無慈悲な天秤

目覚めると、ダイニングテーブルに突っ伏していた。  心臓が早鐘を打っている。  俺は帰ってきた。現在に。  急いで顔を上げ、部屋を見渡す。  仏壇はない。遺影もない。  成功だ。歴史は書き換わった。

「……湊?」

 背後から声がした。  振り返ると、結衣が立っていた。喪服を着て、真っ赤に腫らした目で俺を見ている。

「結衣! 無事だったんだな!」

 湊は椅子を蹴って立ち上がり、妻を抱きしめようとした。  しかし、結衣は力なくその手を払いのけた。

「……何言ってるの? どうしてそんなに嬉しそうなの?」 「え?」 「陽が死んだのに……貴方が突き飛ばしたせいで、あの子だけが……!」

 空気が凍りついた。  湊は結衣の肩越しに、リビングの奥を見る。  そこには小さな、あまりに小さな祭壇があった。  飾られている写真は一枚だけ。  笑顔の陽。

「なんで……俺は二人とも助けたはずじゃ……」

 湊は震える手でスマホを取り出し、一週間前のニュース記事を検索した。  記事の内容が変わっていた。  『交差点でトラック事故。母親は軽傷で済んだが、突き飛ばされた弾みで6歳の女児が転倒。歩道の植え込みにあった鋭利な装飾用フェンスに頭部を強打し、死亡』

「あ……ああ……」

 突き飛ばした方向が悪かったのか。  トラックからは救った。だが、その勢いが娘を別の凶器へと押しやってしまった。  俺が殺したのか?  俺が助けに行ったせいで、陽は死んだのか?

「やり直しだ……!」

 湊はデバイスを掴んだ。  LEDランプは残り二つ。  まだだ。まだチャンスはある。

 再びボタンを押す。  吐き気。  17時00分。夕暮れの交差点。

「パパ、今日のご飯なに?」

 陽の声。生きている。  今度は突き飛ばさない。乱暴なやり方はリスクが高すぎる。  湊は深呼吸をし、二人の前に立ちはだかった。

「結衣、陽! 聞いてくれ!」 「え? 何、急に大きな声出して」 「そこにいてくれ! 動くな! 絶対に動くんじゃない!」

 湊は必死に叫び、二人をその場に釘付けにした。  信号が変わる。本来なら二人が歩き出すタイミング。  だが、俺の呼びかけで二人は足を止めている。  これでいい。トラックが通過するまで、ここにいればいい。

 キキーッ!!  甲高いブレーキ音。  トラックが突っ込んでくる。  予定通りだ。二人の目の前を通過し、電柱にぶつかるはずだ。

 しかし。  二人が立ち止まっていたせいで、わずかに交通の流れが変わっていた。  対向車線から右折しようとしたバスが、立ち止まっている二人を避けるために大きくハンドルを切ったのだ。  そのバスの側面に、トラックが激突した。  物理法則に従い、弾き飛ばされたバスの巨体が、歩道へ滑り込んでくる。

「逃げろ!!」

 湊は叫んだ。  だが、遅かった。  横転するバスの影が、三人を覆う。  ドンッ!  衝撃。  土煙が舞う中、湊は見た。  結衣が陽を覆い被さるように抱きしめ、バスの下敷きになる瞬間を。

 3分経過。  強制帰還。

 現在。  部屋には、陽が一人で座っていた。  ランドセルを背負ったまま、ぼんやりとテレビを見ている。  キッチンには誰もいない。  仏壇には、結衣の写真だけが飾られている。

「……パパ? どうしたの、泣いて」

 陽が不安そうに見上げてくる。  湊は床に崩れ落ち、慟哭した。  まただ。またダメだった。  助けた方が生き残り、もう片方が死ぬ。  まるで運命の総量が決まっているかのように、死神は必ず一人を連れて行く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る