幼馴染
俺――晴希(はるき)は、愛車のマウンテンバイクのハンドルを握りしめたまま、行き場のない視線を地面の砂利に落としていた。
「ねえ、覚えてる?」
隣に立つ結衣(ゆい)が、唐突に沈黙を破った。校舎の壁に背を預け、ローファーの先で小さく地面を蹴っている。その何気ない仕草一つひとつが、傾いた陽光に縁取られて、心臓が痛くなるほど綺麗に見えた。
「……何をだよ」
俺はあえて、不機嫌そうな声を出す。そうでもしないと、うるさいほどに脈打つ鼓動が彼女に漏れてしまいそうだった。握り込んだゴムのグリップが、手汗でじっとりと湿っている。
結衣はふいっと顔を上げ、少しだけいたずらっぽく、それでいて壊れ物を扱うような繊細な笑みを浮かべた。
「小学生のときさ。私が言ったやつ」
一拍。
夕風が二人の間を吹き抜け、彼女の少し長めの前髪を揺らした。
「大きくなったら、ハルくんと結婚する!って」
その瞬間、俺の脳内で記憶の蓋が劇的に弾け飛んだ。顔が、沸騰したみたいに熱くなる。耳たぶまでカッと火照るのが自分でもわかった。
忘れるはずがなかった。
あれは、小学三年生の夏休み前。公園のブランコが、夕暮れの影を長く引きずっていた。
泥だらけの運動靴。砂場の砂が入り込んだソックス。結衣は、泣き出しそうな、でもそれ以上に何か強い決意を秘めたような顔で、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んでそう言ったのだ。
あのときの俺は、ただ照れくさくて、でも結衣の真剣さに気圧されて。
「……いいよ! してやるよ!」
なんて、生意気で、それでいて何も考えていない返事をした。
それが、十年。
ただの子供の戯言だ。ままごとの延長線上の、笑い話になるはずの約束。
それなのに、どうして今、彼女の口からその言葉が出ただけで、肋骨の裏側がこれほどまでに騒がしいのか。
「……それがどうしたんだよ。今更」
平静を装った声。だが、彼女はその裏にある揺らぎを、簡単に見透かしたらしい。
「覚えててくれたんだ」
結衣は嬉しそうに目を細めた。そして、自分のカバンの隅についている、古びた、色あせたアクリルキーホルダーに指を触れた。それは、あの公園の帰り道に、俺がガチャガチャで取ってやった安物の犬のキャラクターだった。
「ねえ、ハルくん。これ、なんで私がまだ持ってるか、わかる?」
「……物持ちがいいだけだろ」
「違うよ。ずっと、これを『保険』にしてたの。ハルくんがもし他の女の子を好きになりそうになったら、これを見せて『責任取ってよね』って言うつもりだったんだから」
彼女は少しだけ唇を尖らせて、上目遣いに俺を見た。その瞳に宿る熱に、俺は射すくめられる。
「ハルくんって、本当にひどいよね。自分があんなにカッコつけて返事したくせに、中学生になったら急に距離置いたりしてさ。……そのくせ、私のことずっと私をキープしてたんでしょ?」
「なっ……! キープなんて、そんなわけ……!」
「じゃあ、なんで付き合いもしない幼馴染といつも一緒に帰ってくれるの?」
結衣が一歩、踏み込んでくる。
彼女の放つ、シャンプーの微かな香りと、十年前から変わらない真っ直ぐな意志が、俺の逃げ場を塞いでいく。
俺は、ハンドルから片手を離し、乱暴に自分の前髪をかき上げた。
ずるいのは、お前の方だ。
そんな顔をして、そんな昔の話を持ち出して。
俺がどんな気持ちで、この「当たり前の毎日」を守ってきたと思っているんだ。
同じ教室で、隣の席で、テストの点数に一喜一憂したり、将来の話をはぐらかしたり。
彼女の笑顔が当たり前すぎて、失うことが怖くて、だから「ただの幼馴染」という安全圏から一歩も出られずにいた。
でも。
「……キープ、してたのかもな」
俺は、絞り出すように言った。
「お前以外の誰かを隣に置くなんて、想像もできなかった。かといって、あの日みたいに『いいよ』って二つ返事できるほど、今の俺は無知じゃない。……結婚なんて、そんな重い言葉、責任持てるようになってからじゃないと言えないと思ってた」
結衣の目が見開かれる。
俺は一歩、自転車を支えたまま、今度は俺の方から近づいた。
タイヤが彼女のローファーに触れるか触れないか、その距離。
「俺さ、小学生のときは、よくわかってなかった。結婚の意味も、好きっていう気持ちの重さも」
一度、息を深く吸い込む。肺の奥まで、夕暮れの冷え始めた空気が満ちる。
「でも今は……ちゃんと、わかってる。結衣。お前のことが、ちゃんと好きだ」
結衣は、少し黙ってから、震える声で言った。
「それって……告白?」
俺は、小さく笑った。
「たぶん、そう。……でもさ」
俺は、彼女のバッグに揺れるあの安物のキーホルダーをそっと指で弾いた。
「新しい気持ちを言うっていうより――」
彼女が、俺の言葉を引き継いだ。
「答え合わせ、でしょ」
二人で、同時に笑った。
十年前の問題。未解答のまま放置されていた答案用紙。
そこに今、ようやく共通の正解を書き込んだような、晴れやかな心地だった。
結衣は、少し照れながら、でも期待を込めた瞳で俺を見つめる。
「じゃあ……あの約束。まだ有効?」
俺は、まっすぐに彼女を見つめ返した。
「うん。……じゃあ……あの時の約束、今、更新してもいい?」
結衣は驚いたように瞬きをして、それから今日一番の、泣きそうなほどの笑顔でうなずいた。
「俺さ、今はまだ制服だし、将来何になるかもはっきりしてない。お前を養う自信なんて、今すぐには持てない」
俺は、彼女の小さな手を、壊さないようにそっと包み込んだ。
少し冷たくて、でも芯の通った温かさ。
「でも、いつかスーツを着て働くようになっても、お前がドレスを着て綺麗になる日も……。そのときも、俺は隣にいたい。いや、隣にいる。……一生かけて、あの日の約束、本物にしてやるよ」
結衣の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは夕日に照らされて、どんな宝石よりも美しく輝いた。
「……バカ。……遅いんだよ、ハルくん」
結衣は俺の手をぎゅっと握り返し、俺の胸に顔を埋めた。
「十年前から、決まってたのに。……やっと言った」
「……悪かったよ」
もう、迷いも、自分への言い訳も必要なかった。
「じゃあ、決まりね」
結衣が顔を上げ、涙を拭って笑う。
「大きくなったら――」
二人同時に言った。
「結婚する!」
帰り道。
俺たちは自転車を押しながら、並んで歩く。
住宅街の街灯がぽつりぽつりと灯り始め、家々の窓からは夕飯の匂いが漂ってくる。
手は、まだつながない。
でも、お互いの指先の距離は、さっきよりずっと近くて。
時折、歩くリズムに合わせて手の甲が触れ合うたびに、全身に電気のような衝撃が走る。
「ねえ、ハルくん。さっきの『更新』した約束、契約書とか書かなくていいの?」
「お前な、雰囲気ぶち壊すようなこと言うなよ」
「だって、ハルくんすぐ忘れるもん。中学の時、私がバレンタインにチョコあげたのだって、『ただの義理だろ』とか言って……」
「……あれは、お前が照れ隠しで『余ったからやる』なんて言うからだろ!」
そんな、なんてことのない言い合い。
でも、そのすべてが愛おしい。
この先、何度も喧嘩をして、何度も仲直りをして、そうやって時間を積み重ねていくんだろう。
十年前、公園のブランコで始まった小さな物語。
それは、泥だらけの靴を履き替え、制服を着こなし、そしていつか正装に身を包み二人一緒になっても続いていく。
告白は、新しい未来を始める魔法じゃない。
ずっと心の奥底に大切にしまっていた、同じ気持ちを確かめ合うための儀式。
帰り道の坂道、二人の影は長く伸びて、一つに重なり合うように続いていた。
その先には、まだ誰も知らない、でも、絶対に二人で歩むと決めた光に満ちた未来が待っている。
「ねえ、大好きだよ、ハルくん」
「……ああ。俺もだ」
ぶっきらぼうな返事。
でも、繋ごうとして、指先が触れ合った瞬間の熱さは、
あの日失くさなくて本当によかったと思える、俺たちのたった一つの宝物だった。
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