告白は答え合わせ
実験的ツジハシ
独逸
南ドイツ、バイエルン州の州都ミュンヘン。
その中心部に位置する、数世紀の歴史を誇る学術図書館は、知の集積地であると同時に、沈黙が絶対的な支配権を持つ聖域だった。
重厚なオークの扉を開ければ、そこには都市の喧騒から切り離された、別の時間が流れている。高いドーム状の天井から降り注ぐ冬の微かな光が、宙を舞う無数の塵を、あたかも記憶の破片のように黄金色に染めていた。
セレスティア・フォン・ベルクマン。
彼女が書架の間を歩けば、私語を慎まない不埒な学生でさえも即座に口を閉ざし、閲覧室には真の静寂が訪れる。銀色の髪を、一切の乱れもなくうなじでまとめ上げ、鉄のような芯を感じさせるネイビーの制服に身を包んだ彼女。
その姿は、精密なスイス製の時計仕掛けの人形を思わせた。彼女が手に持つ図書整理のリスト、羽ペンの動き、そして規則正しい靴音。そのすべてが、図書館という壮大なシステムの歯車として完璧に機能していた。
日本から一年の任期で渡独した言語学研究員の修が、その「氷」に触れたのは、滞在が半年を過ぎた、街が激しい吹雪に見舞われたある午後のことだ。
図書館の巨大な窓の向こう側では、視界を白く塗りつぶすほどの雪が吹き荒れていた。慣れないドイツ語の文献、そして何より異国の地の厳しい冬に、修の心は少しずつ削り取られていた。どうしても必要な中世の古文書が見つからず、彼は意を決して、カウンターで冷徹に目録をチェックしていたセレスに声をかけた。
「……あの、すみません。この、文献を探しているのですが」
「……あなたのドイツ語、雪が溶けるのを待つみたいに慎重すぎてイライラするわ」
それが彼女の第一声だった。低く、よく通る声が、しんとした館内に響く。
「もっと腹に力を入れて話しなさい。言語とは、次にめくるべき頁を、はっきり示すための合図よ。そんなにちんたらしていたら迷っている間に、物語は終わってしまうわ」
修はあまりの直球な物言いに、言葉を失って呆然と立ち尽くした。しかしセレスは彼の動揺など意に介さず、音もなく椅子から立ち上がると、迷いのない足取りで書庫の奥へと消えていった。
数分後、彼女は数冊の、埃を被った分厚い専門書を抱えて戻ってきた。
「ほら、これでしょう。……そんなに驚いた顔をしないで。あなたの発音は最悪だけど、探している本のセンスだけは認めてあげるわ。この時代の言語構造を調べるのに、これを外すのは素人だけよ」
ツンと顎をそらし、視線を合わせないように本を差し出す彼女。修はとまどいながら本を受け取る。それが修とセレスの、お世辞にも良好とは言えない、しかし忘れがたい始まりだった。
その日から、修の日常は「図書館への通い詰め」となった。研究のためという名目は、いつの間にか彼女に会うための口実へとすり替わっていた。セレスティア――セレスは修の執筆するドイツ語論文の「校閲者」となった。それは司書の業務を越えていたが、彼女は「不正確なドイツ語が学術界に流布するのを防ぐため」という大義名分を崩さなかった。
十二月半ば。ミュンヘンは一年で最も美しい季節を迎えていた。マリエン広場で開催されるクリスマスマーケット(クリストキンドル・マルクト)。スパイスの効いたグリューワインの香りと、琥珀色の電飾が街を包み込む。
修は勇気を出して、仕事帰りのセレスをマーケットに誘った。彼女は「司書として、異文化交流の在り方を確認する必要がある」という、およそデートとは思えない理由を並べて承諾した。
「日本には、桜という花があるんだ」
巨大なクリスマスツリーの下、修は白い息を吐きながら語りかけた。
「春になると、世界が淡いピンク色に染まるんだよ。……雪が溶けて、その後に来るのは、ここよりもずっと柔らかな春だ。いつか、君にも見せてあげたいな」
セレスは、独り言のように呟いた。
「……慎重なのは結構だけど、雪が溶けるのを待っている間に、春が終わってしまうこともあるわ。言葉も、人生も。あなたが『もし~なら』と夢想している間に、現実は音もなく頁をめくってしまうのよ」
彼女の横顔は、電飾の光を受けて複雑な影を落としていた。その言葉は修に向けられたものであると同時に、彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
数日後の閉館間際。
ふと、修は彼女のデスクの端に置かれた一冊の古い本に目を止めた。
それはドイツ語訳された『日本の桜――その生態と文化』だった。
「へえ、桜の本だ。もしかして、興味を持ってくれたの?」
修が何気なく手を伸ばそうとすると、セレスは弾かれたようにその本を奪い取った。
「当館の蔵書に、植物学的な不備がないか確認していただけよ。司書として、利用者の提示したトピックを精査するのは当然の責務だわ、あなたの国の花なんて、これっぽっちも興味ないわ。」
彼女は耳まで真っ赤にして、いつものように突き放した。しかしそれは、彼女が「現実にはまだ存在しない春」に向かって、密かに橋を架け始めた証拠だった。
修の帰国まで、あと二週間となった。
ミュンヘンの冬はさらに厳しさを増し、窓の外は連日のように鉛色の雲に覆われていた。その日、修が図書館を訪れると、ある異変に気づいた。
セレスのデスクが、あまりにも清廉だったのだ。
彼女が長年愛用し、インクの染みがついていた私物のペン立てがない。愛読していた革表紙の辞書もない。何より、彼女が担当していた書架の整理記録が、数ヶ月先までの予定表と共に、後任の司書へ完璧に申し送られていた。
それは、そこにいた人間が、自分の存在の痕跡を一つずつ丁寧に消し去っているかのようだった。
「なんだか……異動でもするみたいだね
」
修の喉の奥から、絞り出すような不安が言葉になった。
セレスは一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに鋭い口調で返した。
「整理整頓は司書の基本よ。……あなたの整理されていない頭の中と一緒にしないで。任期が終わる研究員が、他人のデスクを気にする余裕があるのかしら?」
その日の閉館。修が「また明日」と言って席を立った瞬間。
セレスの手が、わずかに修のコートの袖に向かって伸びた。それは、彼女という「完璧な機構」が、初めて見せた誤作動だった。しかし、彼女は指先が布に触れる寸前で、それを止めた。
掴もうとして、プライドと恐怖がそれを許さなかった。
修が違和感に振り返ったときには、彼女はすでに背を向け、影の落ちた書架の奥へと消えていた。
修は気づかなかった。彼女が「頁をめくろう」としていたことに。
そして、その勇気が出せずに、どれほど指先を震わせていたかということに。
楽しい時間は、残酷なほど早く過ぎ去る。修の帰国まであと二週間となった頃、ミュンヘンにはようやく春の足音が聞こえ始めていた。
修の心は、逃げ場のない激しい葛藤に揺れていた。
セレスを愛している。その事実に一点の疑いもない。だが、彼女を日本へ連れて行くことが、本当に彼女の幸せになるのだろうか。
ドイツには彼女の家族がいて、誇りを持って働くバイエルン州立図書館がある。彼女はこの歴史ある街の一部なのだ。対して、日本は彼女にとって未知の異境。言葉も通じず、文化も違う。自分のエゴで、彼女をその「定位置」から引き剥がしていいはずがない。
(自分は彼女の自由を奪う資格があるのか……?)
修は結局、その思いを飲み込んだまま、一度も「一緒に来てほしい」と言い出せずに帰国の日を迎えてしまった。
ミュンヘン空港。ガラス張りのロビーの向こうには、冬の名残を留めた重い雲が垂れ込め、灰色の滑走路がどこまでも続いている。
見送りに来たセレスは、腕を組み、不機嫌を絵に描いたような顔で立っていた。その沈黙は、これまでのどの毒舌よりも鋭く修を刺した。
「……結局、最後まであなたのドイツ語は完璧にはならなかったわね。そんな体たらくで日本に帰って、恥をかかないことね。向こうでもせいぜい、下手くそな言葉で誰かに迷惑をかければいいわ」
それは彼女なりの、精一杯の寂しさの裏返しだった。だが、別離の悲しみに打ちひしがれていた修には、それを解きほぐす余裕はなかった。
「ああ……。今まで本当にありがとう、セレス。君のおかげで、最高の滞在になった。君のことは、一生忘れない。……元気で」
修が背を向け、一歩を踏み出した。
一歩進むごとに、心の一部がミュンヘンの石畳に張り付いて、千切れていくような痛みを感じる。
その時だった。
「――待ちなさい、この大馬鹿者!!」
凍てつく空港の空気を切り裂くような、悲鳴に近い叫び。
次の瞬間、ガシッ、と。修のコートの袖が、千切れんばかりの強い力で掴まれた。
あの図書館で、掴み損ねたのとは違う。もう二度と離さない、離してなるものかという、剥き出しの意志。
「……セレス?」
振り返ると、そこには今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えたセレスがいた。
完璧だったはずの銀色の髪は乱れ、翡翠色の瞳は情熱と悲しみで激しく燃えている。
「私を、あなたのいないこの街に、独りきりで置き去りにするつもり!? あなたのその、雪が溶けるのを待つようなまどろっこしい言葉なんて、もう待っていられないわ!」
「セレス、でも、君の仕事は? この国での生活は……」
「三ヶ月前から退職と移住の準備は進めていたわよ! 私が何も考えずにあんな完璧な引き継ぎをすると思ったの!? あなたが私を連れて行くと言い出さないから、私がついて行く理由を、自分で作るしかなかったじゃない……!」
彼女は震える手で、ポケットから一枚の紙を取り出した。
それは、修と同じ便の、日本への片道航空券だった。
彼女は「もし彼が言ってくれたら」という接続法の世界に留まることを拒絶した。自分の人生という物語の頁を、彼女は自らの手で、強引に、かつ確かにめくってみせたのだ。
「……責任を取りなさい、修。あなたの下手なドイツ語を一生直してあげるから。日本で、あの本の続きを……私たちが生きる、本物の春を、私に見せなさい」
修は、全身に雷を打たれたような衝撃を受けた後、溢れ出す愛しさを抑えきれず、人目も憚らず彼女を強く抱きしめた。
「……ああ。一緒に行こう、セレス。君を、一生離さない。」
それから、日本での生活が始まった。
セレスティアの適応能力は、周囲を驚かせた。
「『生』という漢字の読み方が多すぎるのは、言語としての構造的欠陥よ! 理論的ではないわ!」と憤慨しながらも、彼女は持ち前の完璧主義で日本語を猛勉強した。
数年後には、修よりも正確で、美しい敬語を操る「日本一、着物の似合うドイツ人」として近所でも評判になっていた。
現在。
彼らの家の庭には、あの冬のミュンヘンで、約束した通り、小さな桜の木が植えられている。春の柔らかな陽光の下、二人の子供たちが、ドイツ語と日本語が混ざった賑やかな声を上げながら、桜の周りを元気に走り回っていた。
ふとした拍子に、縁側で茶を啜っていた修が隣の妻に聞いた。
「セレス、日本に来て後悔したことはないかい? 君のキャリアを捨てさせてしまったんじゃないか、と時々思うんだ」
セレスは、かつて図書館の静寂の中で夢想した光景――今、目の前で淡いピンク色に咲き誇る桜を見つめた。風が吹くたび、花びらが雪のように舞う。けれど、それは凍てつく雪ではなく、命の温もりを運ぶ雪だ。
彼女はゆっくりと、夫に向き直った。その瞳には、かつての「氷」の欠片もない。慈愛に満ちた、温かな光が宿っている。
「後悔? ……ええ、一つだけあるわ」
修の心臓が、わずかに跳ねた。
「……やっぱり、故郷が恋しい?」
セレスは彼に一歩近づき、その耳元で、かつての司書時代のような不遜で、けれど限りなく甘い声で囁いた。
「もっと早く、あの図書館であなたの袖を掴んでいれば良かった。そうすれば、もっと長く、この桜をあなたと見られたのに。……完璧だった私の人生の計算に、それだけの狂いが生じたこと。それだけは、後悔しているわ」
言い終わるなり、セレスは顔を赤らめてパッと離れた。
「……な、何よ。文句があるなら、きちんと言葉になさい!」
修は苦笑し、それから心からの愛しさを込めて、彼女を抱き寄せた。
「いや、反論はないよ。……これからも、毎年一緒に、次の頁をめくろう。愛してる、セレス」
庭の桜は、今を盛りと咲き誇り、舞い散る花びらが二人の長い旅路を祝福するように、静かに、そして温かく降り注いでいた。
二人の物語は、かつての氷が完全に溶け去った後の、柔らかな春の中で、続いていく。
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