第4話 処刑人の影
1
千代田区、麹町。
高級住宅街の一角に、秋山英治の自宅はあった。
築十年ほどの三階建て。白い外壁、黒い屋根。庭には手入れされた松の木。
元検事の家らしい、堅実で上品な佇まいだった。
るるが到着したとき、すでに警察の車両が二台止まっていた。
玄関前に早川が立っている。
「早いですね」
「タクシーで来ました」
「中にいます。本人と、護衛の刑事が二人」
「砂時計は」
「押収しました。他の五件と同じもの。三分計、市販品、差出人不明」
るるは家を見上げた。
「秋山さんは、どんな様子ですか」
「……怯えてはいません。むしろ、怒っている」
「怒っている?」
「『私は何も悪いことはしていない。脅迫されるいわれはない』と」
るるの眉が上がった。
「——会わせてもらえますか」
「本人が了承すれば」
2
リビングは広かった。
革張りのソファ、マホガニーのテーブル、壁には抽象画。
その中央に、秋山英治は座っていた。
五十代後半。白髪交じりの短髪。度の強そうな眼鏡。顎の線が鋭い。
瞬目頻度、毎分9回。極端に少ない。訓練されている。
瞳孔径、収縮。警戒と敵意。
呼吸、深く遅い。意図的にコントロールしている。
姿勢、背筋が伸びている。権威的。
——この人は、長年の法廷経験で自分を制御する術を身につけている。
「あなたが『死者の弁護人』ですか」
秋山の声は低く、威圧的だった。
「はい。雛森るると申します」
「なぜ、あなたがここにいる。私はまだ死んでいませんが」
「早川さんからお話を聞いて。お力になれることがあれば、と」
「力?」
秋山は鼻で笑った。
「私に必要なのは警察の護衛であって、民間の探偵ごっこではない」
瞬目頻度、変化なし。
声の周波数、安定。
手の動き、なし。
——本気で言っている。この人は、自分が危険な状況にあると思っていない。
「秋山さん。失礼ですが、過去五人は全員、砂時計が届いた三日後に殺されています」
「知っています」
「怖くないんですか」
「怖い?」
秋山は眼鏡を押し上げた。
「私は三十年間、検事として凶悪犯罪者と向き合ってきた。脅迫状など何百通と受け取った。今さら砂時計一つで怯えると思いますか」
「でも、過去の被害者は——」
「過去の被害者は、自分に後ろめたいことがあった。だから殺された。私にはない」
るるは秋山の目を見つめた。
「五年前の事件について、お聞きしてもいいですか」
秋山の瞬目頻度が、一瞬だけ上昇した。
9回/分から、14回/分へ。
すぐに戻った。しかし、るるは見逃さなかった。
——ここに触れられたくない。
「事件? 何のことですか」
「証拠隠滅の疑惑です。不起訴になったと聞いていますが」
「不起訴ではない。『嫌疑なし』です。意味が違う」
「では、何もなかった、と」
「当然です。事実無根の中傷だった」
声の周波数が0.3Hz上昇した。
呼吸が僅かに浅くなった。
——嘘ではない。しかし、全部を言っていない。
「秋山さん。一つだけ教えてください」
「何ですか」
「五年前の事件で、被害者は誰でしたか」
秋山は黙った。
長い沈黙だった。
瞬目頻度が上昇している。16回/分。
喉仏が動いた。唾を飲み込んだ。
——これは、核心だ。
「……被害者など、いません」
「本当ですか」
「証拠隠滅の『疑惑』があっただけ。実際には何も起きていない」
「では、なぜ砂時計が届いたんでしょう」
秋山は答えなかった。
るるは立ち上がった。
「わかりました。お邪魔しました」
「待ちなさい」
秋山の声が追いかけてきた。
「あなたは何を調べている。私の身辺を探るつもりですか」
「いいえ。わたしの仕事は『死者の弁護』です。あなたはまだ生きている」
「……皮肉か」
「事実です。でも——」
るるは振り返った。
「——三日後にあなたが死んだら、そのときはわたしが弁護します。あなたにも、殺されるべきではなかった理由があったはずだから」
秋山の顔が強張った。
るるは家を出た。
3
外で待っていた早川が、るるに歩み寄った。
「どうでした」
「隠してます。五年前の事件のこと」
「何を?」
「まだわかりません。でも、『被害者はいない』という言葉は嘘でした」
早川は腕を組んだ。
「五年前の事件……私も調べてみましたが、資料がほとんどない。内部調査で不起訴になった、という記録だけ」
「誰が告発したんですか」
「匿名です。検察内部からの告発だったらしいですが、告発者は特定されていない」
「もみ消された可能性は」
「……あり得ます。秋山は当時、東京地検の次席検事でした。上層部に近い人物」
るるは考え込んだ。
「過去四人の被害者について、もう少し詳しく調べたいんです」
「何を?」
「彼らが『法で裁かれなかった』とき、担当した検察官や裁判官のリスト」
早川は眉をひそめた。
「何か関係があると?」
「まだ仮説ですが——五人の事件に、共通して関わった人物がいるかもしれない」
「つまり、処刑人は被害者遺族ではなく、司法関係者だと?」
「逆です。処刑人は、司法関係者に『裏切られた』と感じている人物。五人を無罪にした検察官や裁判官への怨みを持っている」
早川は黙って考えていた。
「……調べてみます」
4
事務所に戻ると、桐生あかりが興奮した様子で待っていた。
「見つけました」
「何を?」
「五人の被害者に共通する人物。検察側の人間です」
桐生はノートパソコンの画面を見せた。
「山岸隆の殺人事件、井上誠一郎の詐欺事件、川島修一のひき逃げ、篠原雅彦のパワハラ訴訟、蓮見憲三の性的暴行事件。この五件すべてで、検察側の証拠収集または公判に関わった人物がいます」
「誰ですか」
「秋山英治」
るるの目が見開いた。
「……秋山が?」
「正確には、秋山が率いていたチームです。秋山は五年前まで、東京地検の特捜部で次席検事をしていた。五件の事件は、すべて秋山の管轄下にあった」
「でも、五人は全員『無罪』か『不起訴』になっている」
「そうです。秋山のチームが担当したのに、全員が法の裁きを免れた」
るるは椅子に座り、天井を見上げた。
「——つまり、秋山は『罪人を逃した検察官』」
「ええ。そして今、その秋山自身が『処刑』の標的になっている」
「皮肉ですね。彼が逃した罪人たちと、同じリストに載っている」
桐生は頷いた。
「でも、わからないことがあります」
「何ですか」
「秋山は検察官です。彼が『逃した』五人に対して、直接の被害者ではない。なぜ、秋山が標的になるんでしょう」
るるは考えた。
「——犯人にとって、秋山は『共犯者』なのかもしれない」
「共犯者?」
「五人を逃したのは、秋山の無能ではなく、意図的な行為だとしたら」
桐生は息を呑んだ。
「……証拠隠滅」
「そうです。秋山は五人の証拠を隠滅し、意図的に無罪にした。犯人はそれを知っている」
「でも、なぜそんなことを」
「賄賂か、脅迫か、あるいは別の理由か。それはまだわからない」
るるは立ち上がった。
「五年前の事件を調べる必要があります。秋山が告発された『証拠隠滅』の中身を」
5
翌日、るるは国会図書館にいた。
五年前の新聞記事、週刊誌の記事、ネットのアーカイブ。
秋山英治に関する報道を片っ端から調べた。
ほとんどが短い記事だった。
「東京地検次席検事、証拠隠滅の疑惑で内部調査」
「秋山次席検事、嫌疑なしで職務復帰」
「秋山検事、依願退職」
表面的な事実だけ。詳細は報じられていない。
——もみ消されている。
しかし、一つだけ詳しい記事があった。
週刊誌の特集記事。「検察の闘 秋山次席検事の疑惑を追う」
るるはその記事を読み込んだ。
記事によると、秋山は複数の事件で「証拠の取り扱いに問題があった」と内部告発されていた。
具体的には——
・証人の証言を歪曲した調書
・被告に有利な物証の握りつぶし
・捜査報告書の改竄
いずれも立証には至らなかったが、告発した検察官は「明らかに意図的だった」と主張していた。
告発者の名前は伏せられていたが、記事には一つのヒントがあった。
「告発者は、秋山の部下として複数の事件を担当した三十代の女性検事とされる」
るるはその一文に目を留めた。
三十代の女性検事。秋山の部下。
「——この人を探さないと」
6
図書館を出たとき、携帯が鳴った。
早川からだった。
「雛森さん。大変です」
「何かありましたか」
「秋山が姿を消しました」
「え?」
「今朝、護衛の刑事が交代で自宅を訪ねたら、秋山がいなかった。車もない。携帯も繋がらない」
「逃げた?」
「わかりません。自発的に逃げたのか、連れ去られたのか」
るるは息を呑んだ。
「砂時計が届いてから、何日目ですか」
「二日目です。残り一日」
一日。
あと一日で、秋山は殺される。
「早川さん。一つお願いがあります」
「何ですか」
「五年前に秋山を告発した検察官。三十代の女性。名前を調べてもらえませんか」
「なぜ?」
「秋山を殺そうとしている人物に、繋がるかもしれないから」
長い沈黙があった。
「……調べてみます」
7
その夜、早川から連絡があった。
「名前がわかりました」
「誰ですか」
「水原玲子。当時33歳。秋山の下で三年間、主任検事として働いていた」
「今は?」
「五年前に検察を退職しています。退職理由は『一身上の都合』。その後の足取りは——」
早川の声が途切れた。
「——どうしました?」
「……不明です。退職後、住民票の移動記録がない。まるで、消えたみたいに」
るるの背筋が冷えた。
「消えた?」
「ええ。五年間、公的な記録が一切ない。銀行口座の動きもない。健康保険も使っていない」
「死亡届は?」
「出ていません。戸籍上は生存しています」
るるは考えた。
水原玲子。秋山を告発し、退職し、そして「消えた」女性。
「——彼女が、処刑人ですか」
「まだ断定はできません。でも、可能性は高い」
「写真はありますか」
「探しています。検察の職員名簿から当たっていますが、見つかっていません」
「桐生さんにも頼んでみます。週刊誌の記者なら、別のルートがあるかもしれない」
「お願いします。時間がない」
8
深夜、るるは事務所で資料を広げていた。
水原玲子。
彼女が処刑人だとすれば、動機は何か。
秋山に告発を握りつぶされた恨み?
それだけでは、五人の「罪人」を殺す理由にはならない。
るるは別の可能性を考えた。
水原玲子は、秋山の部下として五件の事件に関わった。
そして、秋山が証拠を隠滅するのを見た。
告発したが、もみ消された。
彼女は検察を去り、「消えた」。
——その五年間、彼女は何をしていた?
るるは目を閉じた。
IQ180の頭脳が、パズルのピースを組み立てていく。
水原玲子は、五年間で殺人の技術を磨いた。
スマートホームのハッキング、音声合成、遠隔操作。
独学か、あるいは誰かに学んだか。
そして、「処刑」を開始した。
最初は、秋山が「逃した」罪人たちから。
外側から、中心へ。
裁判所を取り囲むように、一人ずつ。
最後の標的は——秋山英治本人。
彼女にとって、秋山は「諸悪の根源」。
五人の罪人を逃した張本人。
正義を裏切った男。
「——でも、なぜ今なのか」
るるは呟いた。
五年間、沈黙していた水原玲子が、なぜ今「処刑」を始めたのか。
きっかけがあったはずだ。
三ヶ月前に、何かが起きた。
何が?
携帯が鳴った。
桐生からだった。
「見つけました。水原玲子の写真」
「どこで?」
「五年前の検察の内部広報誌。廃刊になっているやつを、国会図書館のマイクロフィルムで見つけました」
「顔は確認できますか」
「はい。これから画像を送ります」
数秒後、画像が届いた。
るるはそれを開いた。
写真には、三十代前半の女性が映っていた。
黒髪のショートカット。切れ長の目。鋭い眼光。
どこかで見た顔だった。
どこで?
るるは記憶を辿った。
最近会った人物の顔を、一人ずつ思い出していく。
蓮見真知子。違う。
榊原美鈴。違う。
高梨芳江。違う。
桐生あかり。違う。
早川。違う。
秋山英治。違う。
では、誰だ?
るるは目を閉じ、記憶を再生した。
蓮見のマンション。浴室。リビング。書斎。
秋山の自宅。リビング。護衛の刑事——
るるの目が開いた。
「——護衛の刑事」
秋山の自宅にいた、護衛の刑事。二人いた。
一人は男性。もう一人は——女性だった。
るるは早川に電話をかけた。
「早川さん。秋山さんの護衛についていた刑事、名前を教えてください」
「護衛? 捜査一課の山本と、生活安全課の——」
「女性の方です」
「ああ、彼女は……少し待ってください」
沈黙があった。
「——おかしいな」
「何がですか」
「記録にない。女性の刑事なんて、配置した覚えがない」
るるの心臓が跳ねた。
「じゃあ、あの女性は誰ですか」
「わからない。山本に確認を——くそ、山本が電話に出ない」
「早川さん。秋山さんは『逃げた』んじゃない。『連れ出された』んです」
「何だって?」
「水原玲子です。彼女は護衛の刑事に成りすまして、秋山さんの自宅に入り込んだ。そして、秋山さんを連れ出した」
電話の向こうで、早川が息を呑む音がした。
「……秋山は、今どこに」
「わかりません。でも、あと一日しかない。明日、秋山さんは殺される」
「どうすれば……」
るるは考えた。
水原玲子は、秋山をどこに連れて行く?
「処刑」の場所。
それは、彼女にとって意味のある場所のはず。
秋山との因縁が生まれた場所。
あるいは——
「——東京地方裁判所」
るるは呟いた。
「え?」
「円の中心です。処刑人は、最初からそこを目指していた。五人を外側から殺し、最後に中心で秋山を殺す。裁判所で」
「裁判所で殺人? どうやって」
「わかりません。でも、彼女ならやる方法を考えているはず」
るるはコートを掴んだ。
「早川さん。明日、東京地裁に行きます。一緒に来てください」
「……わかった」
死者の弁護人 @Setsuna_Zero
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