第3話 五人目の真実
1
蓮見憲三の遺品が、段ボール三箱分、るるの事務所に届いた。
送り主は蓮見真知子。夫の私物を整理していて、るるに見てほしいものがあるという。
「お忙しいところすみません」
真知子は事務所の隅に立ち、所在なさげにしていた。
「いいえ。ありがとうございます」
るるは段ボールを開けた。
衣類、書籍、文房具。デスクの引き出しに入っていたらしい雑多なもの。
そして、一冊のノート。
「これは?」
「夫の日記です。……私も知らなかったんですけど、ずっとつけていたみたいで」
るるはノートを手に取った。
B5サイズの黒い表紙。市販のもの。特に高価でもない。
開く。
最初のページに日付がある。三年前の四月。
——事件の直後だ。
「蓮見さん。これ、読みましたか」
「……少しだけ。でも、途中で読めなくなって」
真知子の瞬目頻度が上昇した。
声の周波数が低下。抑うつ傾向。
——読んで、辛くなった。
「読んでもいいですか」
「お願いします。それを読めば、夫が何を考えていたか……わかるかもしれません」
真知子は深く頭を下げて、帰っていった。
るるは一人、ノートを読み始めた。
2
蓮見憲三の日記は、短い文章の連続だった。
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四月十五日
裁判が終わった。無罪。
弁護士は喜んでいた。私は何も感じなかった。
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四月二十日
高梨さんの母親が、私の自宅に来た。
玄関先で土下座された。「娘を返して」と。
何も言えなかった。
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五月三日
高梨さんのことを夢に見た。
あの夜のことを。
目が覚めて、吐いた。
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五月十八日
会社を辞めた。
誰も引き止めなかった。当然だ。
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六月二日
外を歩けない。
誰かに見られている気がする。
みんな私を知っている気がする。
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るるはページをめくり続けた。
日記は断続的に続いていた。
自己嫌悪、罪悪感、孤独。
蓮見憲三は、無罪判決の後も苦しみ続けていた。
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八月十四日
『被害者学入門』という本を買った。
高梨さんがどんな気持ちだったか、知りたかった。
読んでいて、涙が止まらなかった。
私は、人の人生を壊した。
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九月三日
高梨さんへの手紙を書き始めた。
何を書けばいいかわからない。
「ごめんなさい」しか出てこない。
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十月十日
高梨さんが自殺したと聞いた。
私は殺人犯だ。
裁判では無罪でも、私が殺したのと同じだ。
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るるは読む手を止めた。
高梨美咲の自殺。
蓮見は、それを自分のせいだと思っていた。
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十月二十五日
高梨さんの墓を探した。
見つけられなかった。
遺族に連絡する勇気がない。
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十一月八日
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
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るるはページをめくった。
そこからしばらく、同じ言葉が延々と続いていた。
「ごめんなさい」だけが、何十ページも。
手紙と同じだった。
蓮見憲三は、日記にも手紙にも、同じ言葉を書き続けていた。
るるは目を閉じた。
——この人は、壊れていた。
罪悪感で、精神が壊れていた。
裁判では無罪になった。でも、自分自身を許せなかった。
だから、「ごめんなさい」を書き続けた。
届かないとわかっている相手に、それでも謝り続けた。
3
日記の後半は、文章が少し変わっていた。
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二年目、三月五日
カウンセリングに通い始めた。
医師は「自分を許すことが必要」と言った。
許せるはずがない。
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二年目、四月二十日
高梨さんの命日。
花を買った。でも、墓がわからない。
自宅の仏壇に供えた。
仏壇には誰もいないのに。
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二年目、七月三日
妻が離婚を切り出した。
当然だ。
でも、私は拒否した。
一人になったら、たぶん死んでしまう。
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二年目、九月十五日
介護サービスを利用し始めた。
膝が悪いというのは本当だが、本当の理由は別だ。
誰かと話したかった。
週に二回、誰かが来てくれる。
それだけで、少し楽になる。
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るるは息を吐いた。
榊原美鈴。入浴介助のヘルパー。
蓮見にとって彼女は、「介護者」以上の存在だった。
孤独な男にとって、唯一の話し相手だった。
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三年目、一月八日
榊原さんと話した。
彼女は私の過去を知らないようだ。
普通に接してくれる。
普通に。
それがどれだけ救いか。
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三年目、三月二十日
榊原さんに、少しだけ話した。
「昔、人を傷つけたことがある」と。
彼女は黙って聞いてくれた。
「誰でも間違いはあります」と言ってくれた。
泣いてしまった。
---
るるはページをめくった。
最後の記述は、蓮見が殺される三日前だった。
---
三年目、十一月二十一日
砂時計が届いた。
差出人はない。
三分計。砂が落ちるのを見ていた。
たぶん、私は殺される。
ネットで「正義の処刑人」のことは知っている。
私も、その対象なのだろう。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、どこかで安心している自分もいる。
これで、終わる。
この苦しみが、終わる。
高梨さん。
もうすぐ、そちらに行きます。
許してもらえるとは思いません。
でも、直接謝りたい。
最後に一つだけ。
私は、あなたを忘れた日は一日もなかった。
それだけは、本当です。
---
日記は、そこで終わっていた。
るるはノートを閉じた。
しばらく、動けなかった。
4
夕方、るるは早川に連絡を取った。
「高梨美咲さんのご遺族について、教えていただけませんか」
「高梨? 蓮見事件の被害者の?」
「はい。お墓の場所を知りたいんです」
早川は少し黙った後、答えた。
「……ご遺族は母親だけです。父親は美咲さんが幼い頃に他界。一人娘だった」
「その母親の連絡先は」
「お教えすることはできません。遺族のプライバシーです」
「では、お墓の場所だけでも」
「なぜ、そんなことを?」
るるは少し迷った後、答えた。
「蓮見さんの代わりに、花を供えたいんです」
長い沈黙があった。
「……都内の霊園です。後でメールします」
「ありがとうございます」
5
翌日、るるは霊園を訪れた。
冬の午後。空は曇っていた。
高梨美咲の墓は、霊園の奥まった場所にあった。
小さな墓石。新しい花が供えられている。
——誰かが、最近来たんだ。
るるは持ってきた花を供え、手を合わせた。
「……蓮見さんの代わりに来ました」
声に出して、言った。
「彼はずっと、あなたに謝りたかったみたいです。でも、お墓の場所がわからなくて……」
風が吹いた。
「彼は殺されました。『殺されて当然』だと、みんな言ってます。たぶん、彼自身もそう思ってた。でも——」
るるは目を閉じた。
「——わたしは、それでも、彼を弁護したいんです。彼が最後まで、あなたのことを想っていたって。それだけは、誰かに伝えなきゃいけない気がして」
「——誰に、伝えるつもりですか」
声がした。
るるは振り返った。
数メートル離れた場所に、女性が立っていた。
六十代半ば。白髪交じりの髪。痩せた体躯。目の下に深い皺。
瞬目頻度、毎分8回。極端に少ない。
瞳孔径、収縮。警戒。
呼吸、浅く遅い。感情を抑制している。
姿勢、硬直。敵意。
——この人は、わたしを敵だと思っている。
「あなたは……」
「高梨芳江です。美咲の母親」
るるの心臓が跳ねた。
「……失礼しました。わたしは——」
「知ってます。雛森るる。『死者の弁護人』。蓮見憲三を弁護している女」
芳江の声は、氷のように冷たかった。
「なぜ、ここに来たんですか」
「蓮見さんの代わりに、花を——」
「帰ってください」
「え……」
「娘の墓に、あの男の代理で来るなんて。どういう神経をしているんですか」
芳江の目には、怒りと悲しみが混在していた。
瞳孔が拡大した。感情が昂っている。
声の周波数が不安定。怒りを抑えきれていない。
「お気持ちはわかります。でも——」
「わかるはずがない」
芳江は一歩、近づいた。
「娘は殺されたんです。あの男に。裁判では無罪になったけど、私は知ってる。あの男が娘を追い詰めて、殺したのと同じ」
「……はい」
「それなのに、あなたは『弁護』する? 殺人犯を? 娘を殺した男を?」
るるは何も言えなかった。
芳江の怒りは正当だった。
娘を奪われた母親の悲しみは、何年経っても消えない。
「……申し訳ありません」
るるは頭を下げた。
「お邪魔しました」
踵を返そうとしたとき、芳江が言った。
「待って」
るるは立ち止まった。
「……あなた、さっき何か言ってましたね。蓮見が最後まで娘のことを想っていた、って」
「はい」
「どういう意味ですか」
るるは振り返った。
芳江の表情が変わっていた。怒りの奥に、何かを知りたいという渇望が見えた。
——この人は、真実を知りたがっている。
「蓮見さんの日記を読みました。三年分」
「日記?」
「はい。事件の後から、ずっとつけていたようです。その中に、美咲さんのことがたくさん書いてありました」
芳江は黙っていた。
「彼は毎日、『ごめんなさい』を書き続けていました。手紙にも、日記にも。何十ページも、同じ言葉だけ」
「……」
「美咲さんの命日には、花を買っていたそうです。でも、お墓の場所がわからなくて、自宅に供えていたと」
芳江の瞬目頻度が上昇した。
涙腺の活動が始まった。
「彼は、殺される三日前にこう書いていました。『高梨さんを忘れた日は一日もなかった。それだけは本当だ』と」
「……嘘よ」
芳江の声が震えた。
「嘘に決まってる。あの男が、娘のことを……」
「嘘かどうかは、わたしにはわかりません。でも、三年間、毎日のように書き続けた日記が、嘘だとは思えないんです」
芳江は顔を覆った。
肩が震えていた。
泣いている。
るるは黙って待った。
長い沈黙の後、芳江は顔を上げた。
目は赤く腫れていた。
「……その日記、見せてもらえますか」
「ご本人の許可が必要です。蓮見さんの奥様の」
「……そう」
芳江は墓石に目を向けた。
「美咲。あの男、本当に反省してたのかしら」
独り言のように、呟いた。
「私はずっと、あの男を憎んでた。裁判で無罪になったとき、殺してやりたいと思った。でも、できなかった。そしたら、誰かが代わりに……」
るるは息を呑んだ。
その言葉は、桐生あかりと同じだった。
「——誰かが代わりに殺してくれた。それで、どう思いましたか」
芳江はるるを見た。
「……わからない。すっきりするかと思った。でも、何も変わらなかった。美咲は戻ってこない。あの男が死んでも、何も」
「……」
「むしろ、余計に苦しくなった。あの男が死んで、真相を聞く機会が永遠になくなった。あの男が本当に反省していたのか、私には確かめようがなくなった」
芳江の声は、どこか空虚だった。
復讐の虚しさ。
殺しても、何も満たされない。
「だから——」
芳江はるるの目を見つめた。
「——あなたが言う『弁護』。それが本当なら、聞かせてほしい。あの男が、娘に対して本当はどう思っていたのか」
「……わかりました」
るるは頷いた。
「日記のコピーを、お持ちします。奥様の許可を取って」
「お願いします」
芳江は深く頭を下げた。
「……あなたのこと、誤解してました。ごめんなさい」
「いいえ。当然の反応です」
るるは霊園を後にした。
6
事務所に戻ると、桐生あかりが待っていた。
「どこ行ってたんですか」
「高梨美咲さんのお墓」
「……なぜ?」
「蓮見さんの代わりに、花を供えに」
桐生は複雑な表情をした。
「あなた、本当に変わった人ですね」
「よく言われます」
るるはお茶を淹れながら、桐生に尋ねた。
「何かわかりました?」
「ええ。五人の被害者全員、スマートホーム機器を使っていたことが確認できました。警察もようやく動き始めたみたいです」
「遠隔殺人の線で捜査を?」
「そうです。ただ、問題があります」
「何ですか」
「犯人の特定が困難なんです。IPアドレスはすべて海外のVPN経由。身元を隠すのに長けている。プロのハッカーか、それに準じる技術を持った人物」
るるは考え込んだ。
「——動機から絞れませんか」
「動機?」
「五人の被害者は、全員『法で裁かれなかった犯罪者』。その被害者遺族の中に、IT技術に精通した人物がいるかもしれない」
桐生は目を見開いた。
「……それは調べてませんでした」
「五人の事件、それぞれの被害者遺族をリストアップできますか」
「やってみます」
桐生はノートパソコンを開いた。
7
三時間後、リストができあがった。
五人の「処刑」被害者——つまり、法で裁かれなかった犯罪者——に関連する遺族。
一人目、山岸隆(無罪になった殺人容疑者)→ 被害者遺族:妻と二人の子供
二人目、井上誠一郎(詐欺師)→ 被害者:多数、主に高齢者
三人目、川島修一(ひき逃げ犯)→ 被害者遺族:桐生あかりの元婚約者の家族
四人目、篠原雅彦(パワハラ上司)→ 被害者遺族:自殺した部下の家族
五人目、蓮見憲三(性的暴行容疑者)→ 被害者遺族:高梨芳江
「これだけの遺族の中で、IT技術に精通した人物を探すのは……」
「大変ですね」
るるはリストを眺めた。
「でも、一つ気になることがあります」
「何ですか」
「五人の殺害順序」
「順序?」
「最初に殺されたのは山岸隆。その次が井上、川島、篠原、そして蓮見。この順序に、意味があるんじゃないでしょうか」
桐生は首を傾げた。
「罪の重さ順、とか?」
「いいえ。罪の重さなら、順序が違うはず」
るるは立ち上がり、ホワイトボードに五人の名前を書いた。
「——事件発生日順に並べてみましょう」
山岸隆の「元の事件」——十二年前
井上誠一郎の詐欺——八年前
川島修一のひき逃げ——二年前
篠原雅彦のパワハラ——四年前
蓮見憲三の性的暴行——三年前
「……バラバラですね」
「ええ。事件の古さは関係ない」
るるは別の角度から考えた。
「では、『無罪になった日』順では?」
山岸隆——十一年前
井上誠一郎——七年前
川島修一——二年前
篠原雅彦——三年前
蓮見憲三——三年前
「これも順序通りじゃない……」
るるは目を閉じた。
何か、見落としている。
五人に共通するもの。殺害順序を決めるもの。
「——待って」
るるの目が開いた。
「被害者の住所、わかりますか」
「住所?」
「五人の自宅の場所」
桐生はパソコンを操作した。
「山岸隆、世田谷区。井上誠一郎、杉並区。川島修一、中野区。篠原雅彦、新宿区。蓮見憲三、港区」
るるはホワイトボードに地図を描いた。
「——見えました」
「何がですか?」
「円です。犯人は、ある地点を中心にして、外側から内側へ殺している」
桐生は地図を見た。
「外側……世田谷、杉並、中野、新宿、港……確かに、だんだん中心に近づいてる」
「中心はどこだと思いますか」
桐生は目を凝らした。
「千代田区? 中央区?」
「もっと具体的に。この円の中心にあるもの」
るるは赤いマーカーで、地図の中心に点を打った。
「——東京地方裁判所」
桐生は息を呑んだ。
「裁判所……」
「五人は全員、東京地裁で『無罪』または『不起訴』になった。犯人は、裁判所を中心にして、外側から順番に『処刑』している」
「それって、どういう意味ですか」
「犯人にとって、裁判所は『敵』なんです。法で裁けなかった罪人を見逃した場所。その周りに住む『罪人』を、一人ずつ処刑していく。まるで——」
るるは言葉を切った。
「——包囲網を狭めるように」
「最後に、裁判所そのものを狙う?」
「わかりません。でも、犯人の目的は単なる復讐じゃない。もっと大きな『メッセージ』がある」
るるはホワイトボードを見つめた。
「『正義の処刑人』は、法への挑戦状を叩きつけている。『お前たちが裁かないなら、私が裁く』と」
8
その夜、るるは一人で考えていた。
裁判所を中心にした円。
次の標的は、さらに中心に近い場所に住む人物のはず。
千代田区か、中央区か、それとも——
携帯が鳴った。
早川からだった。
「雛森さん。緊急です」
「何かありましたか」
「六人目です。今日、砂時計が届いた人物がいます」
るるの心臓が跳ねた。
「誰ですか」
「秋山英治。58歳。元・東京地検の検事。五年前、証拠隠滅の疑惑があったが、身内の捜査で不起訴になった」
「住所は」
「千代田区です」
るるは立ち上がった。
「——今から行きます」
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