第2話 世論という法廷
1
るるが事務所に戻ると、ドアの前に人が立っていた。
二十代半ばの女性。黒いダウンジャケットにジーンズ、スニーカー。肩にはカメラバッグ。髪は短く、化粧は薄い。
「雛森るるさん、ですよね」
声は明るかった。だが目は笑っていない。
瞬目頻度、毎分16回。やや多い。
瞳孔径、正常。
呼吸、浅く速い。
姿勢、前傾。攻撃的ではないが、積極的。
——記者だ。
「どちら様ですか」
「週刊文潮の桐生です。桐生あかり。ちょっとお話聞かせてもらえませんか」
「取材はお断りしてます」
「取材じゃないです。情報交換」
るるは鍵を開けながら、桐生の様子を観察した。
靴底の減り方、右足が強い。利き足。
カメラバッグの持ち方、慣れている。長年の習慣。
爪は短く切られている。実用重視。
しかし、左手の薬指に日焼けの跡。最近まで指輪をしていた。
——仕事熱心で、私生活に何かあった。離婚か、婚約破棄か。
「……五分だけ」
るるはドアを開けた。
2
桐生あかりは、出されたほうじ茶を一口で半分飲んだ。
「蓮見憲三の件、調べてますよね」
「ええ」
「遺族からの依頼?」
「答える義務はないです」
「じゃあ質問を変えます。『正義の処刑人』について、何か掴んでますか」
るるは桐生の目を見た。
瞳孔が微かに拡大した。期待。
呼吸が浅くなった。緊張。
声の周波数が0.5Hz上昇。興奮を抑えている。
——この人は、何かを知っている。そして、それを確認したがっている。
「わたしが何か知ってると思ってるんですか」
「思ってます」
「なぜ?」
「あなたは普通の探偵じゃない。『人の心を読む女』。捜査一課でも噂になってるらしいですね」
るるは黙った。
桐生は続けた。
「私はこの三ヶ月、『処刑人』事件を追ってます。五人の被害者、全員に共通点がある」
「法で裁かれなかった犯罪者」
「それだけじゃない」
桐生はカメラバッグから封筒を取り出した。中には写真が数枚。
「これ、五人の被害者の自宅です。全員、殺される直前に同じものを受け取っていた」
写真には、玄関先に置かれた小さな包みが映っていた。
「何これ」
「中身は——砂時計」
るるの瞬目が止まった。
「砂時計?」
「三分計。どこにでも売ってる安物。でも全員、殺される三日前に届いている。差出人不明。消印は毎回違う都道府県」
桐生は写真を並べた。
「これが一人目。これが二人目。三、四、五……全部同じ砂時計。ネットで500円くらいで買えるやつ」
「警察は知ってるんですか」
「知ってます。でも公表してない。模倣犯を防ぐため、っていう理由で」
るるは砂時計の写真を見つめた。
三分計。砂が落ちきるまで、三分。
——「お前の時間は残り少ない」というメッセージ。
「なぜ、わたしにこれを?」
「取引です」
桐生の目が光った。
「私は情報を渡す。あなたは、真相に辿り着いたら私に独占で話を聞かせる。どうですか」
るるは桐生を観察した。
心拍数推定、上昇中。興奮している。
瞳孔、拡大したまま。
呼吸、浅い。
——この人は記者としての野心だけで動いているわけじゃない。何か、個人的な理由がある。
「桐生さん。一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なぜ、そこまでこの事件に執着してるんですか」
桐生の瞬目が一瞬止まった。
呼吸が0.4秒間、停止。
——核心に触れた。
「……記者だから、じゃダメですか」
「ダメですね。あなたの反応は『仕事への熱意』じゃない。もっと個人的な何か。左手の薬指、最近まで指輪をしてましたよね。日焼け跡が残ってる。婚約破棄か、離婚か。そしてそれは、この事件と関係がある」
桐生の顔が強張った。
「……本当に心を読むんですね」
「読んでるんじゃないです。見えてるだけ」
長い沈黙があった。
桐生は深く息を吐いた。
「——三人目の被害者。川島修一。覚えてますか」
「ひき逃げで人を殺して、証拠不十分で不起訴になった男」
「その、轢かれた人。私の婚約者でした」
るるは何も言わなかった。
桐生は続けた。
「二年前。彼は横断歩道を渡っていた。信号は青だった。川島は酒を飲んで運転していた。でも、目撃者がいなかった。防犯カメラも角度が悪くて、ナンバーが映らなかった。警察は川島を疑ったけど、決定的な証拠がなくて……」
声が震えた。
「私は川島を殺したいと思った。何度も。でも、できなかった。そしたら、誰かが代わりにやってくれた」
「……それで、すっきりしましたか」
桐生は首を横に振った。
「全然。むしろ、もっと苦しくなった。誰が殺したのか知りたい。その人に会って、聞きたいんです。『これで満足ですか』って」
るるは桐生の目を見つめた。
涙腺の活動は検出されない。泣いていない。
しかし、声帯の緊張は高い。感情を抑えている。
——この人は、復讐の虚しさを知っている。
「……わかりました。取引、受けます」
桐生は顔を上げた。
「本当ですか」
「ただし、条件があります」
「何ですか」
「わたしが『話せる』と判断するまで、何も書かないでください。途中で記事にされると、捜査に支障が出る」
「……わかりました」
桐生は手を差し出した。
るるはその手を握った。
桐生の手は冷たかった。そして、微かに震えていた。
3
桐生が帰った後、るるはホワイトボードの前に立った。
五人の被害者の名前を書き出す。
一人目、山岸隆。無罪になった殺人容疑者。
二人目、井上誠一郎。詐欺で多額の金を奪い、民事でも逃げ切った男。
三人目、川島修一。ひき逃げ犯。
四人目、篠原雅彦。パワハラで部下を自殺に追い込んだ上司。
五人目、蓮見憲三。性的暴行の容疑者。
全員、「法で裁かれなかった」人間。
全員、殺される三日前に砂時計を受け取っている。
——そして、殺害方法。
るるは資料を確認した。
一人目、山岸隆。自宅で首吊り。ただし、自殺ではなく絞殺後に吊るされたと判明。
二人目、井上誠一郎。自宅で心臓発作。ただし、血中から微量の薬物が検出。
三人目、川島修一。自宅マンションのバルコニーから転落。事故に見せかけた突き落とし。
四人目、篠原雅彦。自宅の浴室で溺死。睡眠薬を飲まされた後に浴槽に沈められた。
五人目、蓮見憲三。同じく浴室で溺死。後頭部を殴打後、浴槽に押し込まれた。
——自宅で殺されている。全員。
犯人は被害者の自宅に侵入している。しかも、証拠をほとんど残していない。
どうやって?
高級マンションにはオートロックがある。防犯カメラもある。なのに、犯人の姿は映っていない。
るるは蓮見憲三の殺害現場を思い出した。
あのマンションはセキュリティが厳重だった。エントランスにカメラ、エレベーターにカメラ、各階の廊下にもカメラ。
管理人は24時間常駐。
それなのに、犯人は侵入し、殺害し、脱出した。
——どうやって?
るるは目を閉じた。
IQ180の頭脳が、あらゆる可能性を列挙し始める。
仮説1:犯人は顔を隠していた。
→だが、不審者として通報されるリスクがある。却下。
仮説2:犯人は変装していた。
→可能性あり。しかし、長時間の変装は記録に残る。
仮説3:犯人は内部の人間だった。
→管理人、清掃員、配達員。全員にアリバイがある。却下。
仮説4:犯人は映像を改竄した。
→技術的に可能だが、リスクが高すぎる。
仮説5:犯人は——
るるの目が開いた。
「——そもそも、侵入していない」
声に出して、自分の仮説を確認する。
犯人は物理的に被害者の自宅に侵入していない。
それなのに、被害者は自宅で殺された。
矛盾している。
でも——
「矛盾しているように見えるだけで、矛盾していない方法がある」
るるは携帯を取り出し、早川に電話をかけた。
4
翌日、るるは早川と会っていた。
場所は新宿のカフェ。午後三時。客はまばらだった。
「——で、何が聞きたいんですか」
早川はコーヒーを飲みながら言った。
「蓮見さんの自宅マンション。防犯カメラの映像は確認しましたか」
「しました」
「犯人らしき人物は映っていなかった」
「そうです」
「でも、蓮見さんは確実に他殺。自殺ではない」
「ええ。後頭部の殴打痕、両手首の拘束痕。明らかに殺人です」
るるは早川の目を見つめた。
「早川さん。一つ確認させてください」
「何ですか」
「犯行推定時刻に、蓮見さんの自宅を訪れた人物はいましたか」
早川の瞬目頻度がわずかに上昇した。
「……いました」
「誰ですか」
「訪問介護のヘルパーです。蓮見は半年前から週二回、介護サービスを利用していた。膝を悪くして、入浴介助が必要だったらしい」
「入浴介助」
るるの脳が高速で回転した。
入浴介助。浴室。溺死。
「——そのヘルパー、犯行時刻にマンションにいたんですか」
「いました。午後六時から八時まで。蓮見の死亡推定時刻は午後七時から八時の間。ヘルパーは完全にその時間帯にいた」
「でも、容疑者にはなっていない」
「なっていません」
「なぜ?」
早川は深くため息をついた。
「アリバイがあるんです」
「アリバイ? 犯行時刻に現場にいたのに?」
「そうです。彼女は午後七時に、別の場所にいた証拠がある」
るるは眉をひそめた。
「どういうことですか」
早川はスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
「これは、蓮見のマンションのエレベーター内の映像です。午後七時ちょうど、ヘルパーがエレベーターで一階に降りているのが映っています。その後、エントランスのカメラにも映っている。彼女は午後七時に、確実にマンションを出ています」
「でも、死亡推定時刻は午後七時から八時」
「そうです。ヘルパーが出た後に殺された可能性がある。でも——」
「でも?」
「蓮見の浴室には浴槽の湯の温度を記録するスマート機器があった。データを見ると、入浴開始は午後六時四十分。そして、湯の温度が急激に下がったのが午後六時五十五分」
るるは息を呑んだ。
「——湯の温度が急激に下がった」
「人間が溺れて動きが止まると、水の対流が止まって温度低下のパターンが変わる。科捜研の分析では、蓮見が溺死したのは午後六時五十五分頃とほぼ断定されています」
「つまり、ヘルパーがマンションを出る五分前」
「そうです。ヘルパーは、蓮見が死んだ時点ではまだマンションにいた」
「じゃあ、そのヘルパーが犯人では?」
早川は首を横に振った。
「それが、違うんです」
「なぜですか」
「ヘルパーは午後六時五十五分に、別のクライアントに電話をかけている。三分間の通話記録がある。相手は次の訪問先の老人。『これから向かいます』という内容。声も確認されている」
るるは混乱した。
「……矛盾してます」
「ええ。ヘルパーは午後六時五十五分に電話をしていた。蓮見は午後六時五十五分に溺死した。ヘルパーが電話しながら殺人を行うのは物理的に不可能。溺れる人間の頭を押さえつけながら、普通に電話で会話はできない」
「じゃあ、ヘルパーは無実?」
「今のところ、そういう結論になっています」
るるは目を閉じた。
午後六時四十分、蓮見は入浴を開始した。
午後六時五十五分、蓮見は溺死した。
午後六時五十五分、ヘルパーは電話をしていた。
午後七時ちょうど、ヘルパーはマンションを出た。
犯行時間は、午後六時四十分から六時五十五分の十五分間。
その十五分間に、ヘルパーは蓮見と一緒にいた。
でも、ヘルパーは殺していない。
なら、誰が?
「早川さん。もう一つ質問していいですか」
「どうぞ」
「浴室に、他に誰かいた形跡はありましたか」
「ありません。足跡、指紋、DNA、すべてヘルパーと蓮見のものだけ」
「じゃあ、ヘルパーが出た後に誰かが侵入した可能性は?」
「エレベーターと階段のカメラを確認しましたが、午後七時以降に32階を訪れた人物はいません」
八方塞がりだった。
ヘルパー以外に犯人はいない。
でも、ヘルパーにはアリバイがある。
——不可能犯罪。
「……ヘルパーの名前、教えてもらえますか」
早川は少し迷った後、答えた。
「榊原美鈴。32歳。介護福祉士の資格を持つベテランです。経歴に問題なし、前科なし。蓮見の担当になったのは半年前からで、週二回、火曜と金曜に訪問していました」
「蓮見さんが殺されたのは?」
「金曜日です」
るるはメモを取った。
榊原美鈴。入浴介助。金曜日。午後六時から八時。
「その榊原さんに、会えますか」
「会ってどうするんですか」
「話を聞きたいんです」
早川は腕を組んだ。
「彼女は容疑者ではありません。無関係の一般人に、あなたが接触する理由がない」
「でも、現場にいた唯一の人物です」
「だから何ですか」
るるは早川の目を見つめた。
「早川さん。あなたは榊原さんの供述を信じてますか」
早川の瞬目が一瞬止まった。
呼吸が0.2秒間、停止。
——迷っている。
「……警察としては、彼女の供述に矛盾はありません」
「でも、個人としては?」
「……」
「呼吸が止まりました。あなたは何か引っかかっているんですね」
早川は長い沈黙の後、口を開いた。
「——彼女は、蓮見の死体を発見していないんです」
「え?」
「普通、入浴介助のヘルパーは、入浴が終わった後に様子を確認する。でも榊原は、蓮見を浴室に残したまま帰った。『いつも通り自分で上がると言われたから』と供述している」
「それは……」
「不自然でしょう? 膝を悪くしている高齢者を、浴槽に浸かったまま帰る。万が一溺れたらどうするのか。でも、彼女はそれを『いつもそうしていた』と言う」
「本当にいつもそうしていたんですか」
「わかりません。蓮見に確認する術がない」
るるは考え込んだ。
榊原美鈴。
彼女は何かを隠している。
でも、何を?
「早川さん。お願いがあります」
「何ですか」
「榊原さんの住所を、教えてください」
早川は深いため息をついた。
「……勝手に動いて、何かあっても知りませんよ」
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんですか」
「わたし、人の心を読めるので」
早川は苦笑した。
「……本当に変わった人だ」
5
翌日の夕方、るるは練馬区のアパートの前に立っていた。
築三十年はありそうな古い建物。外壁のペンキは剥げかけている。
二階の一室に、榊原美鈴は住んでいた。
インターホンを押す。
しばらく待つと、ドアが開いた。
「——はい」
女性が顔を出した。
三十代前半。肩までの黒髪。目の下に薄い隈。痩せている。
瞬目頻度、毎分19回。やや多い。
瞳孔径、正常だが、光に対する反応がやや鈍い。睡眠不足。
呼吸数、毎分17回。
姿勢、わずかに後傾。防衛的。
「榊原美鈴さんですか」
「……どちら様ですか」
「雛森るると申します。蓮見憲三さんの件で、少しお話を聞かせていただきたくて」
榊原の瞬目頻度が跳ね上がった。
19回/分から、31回/分へ。
声帯の緊張。皮膚コンダクタンスの上昇推定。
——この名前に、強い反応を示した。
「警察の方ですか」
「いいえ。遺族の方から依頼を受けて、調査をしている者です」
「調査……」
「ご迷惑でなければ、五分だけお時間をいただけませんか」
榊原は迷っていた。
視線が左下に動いた。内的対話。自問自答。
「入ってもらうほどの部屋じゃないんですけど……」
「外でも構いません。近くにカフェか何か——」
「いえ……どうぞ、入ってください」
榊原はドアを大きく開けた。
6
部屋は片付いていた。
ワンルーム。六畳ほど。ベッド、小さなテーブル、本棚。テレビはない。
本棚には介護関連の専門書が並んでいた。そして——
るるの目が止まった。
本棚の隅に、一冊の本がある。
『ケアとは何か——介護者のための哲学入門』
背表紙に折り目がある。何度も読み返された形跡。
「お茶、入れますね」
榊原がキッチンに向かった。
るるはその背中を観察した。
歩き方、左足をわずかにかばっている。古い怪我か、慢性的な痛みか。
肩の動き、左肩が下がっている。利き手は右。
手首、細い。でも筋肉はついている。介護の仕事で鍛えられた手。
「どうぞ」
榊原がお茶を置いた。
るるは礼を言って、一口飲んだ。
「美味しいですね。ほうじ茶」
「安いやつですけど……」
榊原は向かいに座った。
「それで、何を聞きたいんですか」
「あの日のことを、教えていただきたいんです」
「……警察には話しました」
「ええ。でも、わたしはもう少し詳しく知りたくて」
榊原の瞬目頻度が上昇した。
24回/分。
「何が知りたいんですか」
「榊原さんが蓮見さんの自宅を訪れたのは、午後六時ですよね」
「はい」
「入浴介助を始めたのは?」
「六時十五分頃です。最初に健康状態を確認して、服を脱いでもらって、浴室に……」
声の周波数が微かに低下した。
——この話をするのは辛い。でも、嘘ではない。
「入浴を開始したのは六時四十分頃。合ってますか」
「たぶん……そのくらいだと思います」
「湯船に入ってから、蓮見さんの様子はどうでしたか」
「普通でした。いつも通り、気持ちよさそうにしてました」
「何か話しましたか」
「少しだけ。テレビの話とか……世間話です」
「蓮見さんは、何か変わった様子はありませんでしたか」
「……」
榊原が黙った。
瞬目頻度、急上昇。31回/分。
呼吸、浅くなった。
手が膝の上で握られた。
——今、何かを思い出した。
「榊原さん?」
「……一つだけ、変なことがありました」
「何ですか」
「蓮見さんが……『今日が最後かもしれないな』って言ったんです」
「最後?」
「入浴の最後、っていう意味だと思いました。膝の調子が良くなってきたから、もうすぐ介護サービスを終了するのかなって。でも……」
榊原の声が震えた。
「もしかしたら、違う意味だったのかもしれない。自分が殺されるって、わかってたのかもしれない」
「……砂時計のことは、知ってますか」
榊原の瞳孔が急拡大した。
「……何ですか、それ」
「蓮見さんが殺される三日前、自宅に砂時計が届いていたんです」
榊原の反応を、るるは見逃さなかった。
瞬目停止。呼吸停止。筋肉の硬直。
——凍りつき反応。
「榊原さん。砂時計のこと、知ってますよね」
「……」
「あなたの反応は、『初めて聞いた』ではありません。『知っているが、知らないふりをしようとしている』です」
榊原の顔が蒼白になった。
「……どうして、わかるんですか」
「わたしには見えるんです。人が何を考えているか」
長い沈黙があった。
榊原は顔を覆った。
「……砂時計は、見ました」
「どこで」
「蓮見さんの家の、リビングに置いてあった。『これ何ですか』って聞いたら、『三日前に届いた。気味が悪い』って」
「蓮見さんは、怯えてましたか」
「……いいえ」
意外な答えだった。
「怯えてなかった?」
「むしろ、諦めてるような感じでした。『来るなら来い』みたいな。私、不思議に思って聞いたんです。『何かあったんですか』って。そしたら蓮見さん、笑って言ったんです」
「何て」
「『俺は殺されて当然の人間だから』って」
るるは息を呑んだ。
蓮見憲三本人が、そう言っていた。
「それで、あなたはどうしたんですか」
「何も。何もできなかった。翌々日に、蓮見さんは死んでた」
榊原の涙腺が活性化した。涙がこぼれた。
「警察には……言えなかったんです。砂時計のこと、知ってたって言ったら、疑われると思って」
「だから黙っていた」
「はい……ごめんなさい」
るるは黙って待った。
榊原は泣き続けた。
——この人は、隠してはいた。でも、殺してはいない。
涙の出方、嗚咽のパターン、身体の震え。すべてが「罪悪感」を示している。「演技」の特徴は見られない。
「榊原さん。もう一つだけ、聞いてもいいですか」
「……何ですか」
「あなたが蓮見さんの自宅を出たのは、午後七時ですよね」
「はい」
「その時、蓮見さんはまだ湯船にいた」
「はい」
「なぜ、確認せずに帰ったんですか」
榊原は顔を上げた。
「確認……しましたよ」
るるの瞬目が止まった。
「え?」
「浴室を出る前に、蓮見さんに声をかけました。『上がるときは気をつけてくださいね』って。蓮見さんは『わかった、ありがとう』って答えました」
「——蓮見さんが答えた?」
「はい。いつも通り、はっきりした声で」
るるの脳が、急速に再計算を始めた。
午後六時五十五分、蓮見は溺死した。
午後七時、榊原は蓮見の声を聞いて、マンションを出た。
——矛盾している。
死んだ人間が、声を出せるはずがない。
「榊原さん。それは、本当に蓮見さんの声でしたか」
「え……どういう意味ですか」
「間違いなく、蓮見さん本人の声でしたか」
榊原は困惑した表情で答えた。
「……浴室の中からでしたから、くぐもってはいましたけど。でも、蓮見さんの声に間違いないです」
るるは立ち上がった。
「ありがとうございました。もう一度、蓮見さんのマンションに行ってきます」
「何か……わかったんですか」
「まだわかりません。でも、わかりそうな気がします」
るるは玄関に向かいながら、振り返った。
「榊原さん。砂時計のこと、警察に話してください」
「でも……」
「黙っているほうが、あとで辛くなります。信じてください」
榊原は弱々しく頷いた。
7
その夜、るるは再び蓮見憲三のマンションを訪れた。
真知子の許可を得て、浴室に入る。
清掃されている。血痕も何もない。
ただの浴室だった。
——でも、ここで蓮見は死んだ。
るるは浴槽を見つめた。
大きな浴槽。一人で入るには広すぎるくらい。
浴槽の縁に座り、目を閉じた。
午後六時四十分。蓮見は湯船に入った。
午後六時五十五分。蓮見は溺死した。
午後七時。榊原は蓮見の「声」を聞いた。
死者の声。
——死者が喋るはずがない。では、何が喋った?
るるの目が開いた。
浴室を見回す。
浴槽、シャワー、鏡、換気扇——
そして、浴室の隅にある小さなスピーカー。
防水仕様のBluetoothスピーカー。音楽を聴くためのもの。
るるはスピーカーに近づいた。
電源は入っていない。でも、これは——
「——録音」
るるは呟いた。
蓮見の声を、事前に録音しておく。
そして、犯行後に再生する。
榊原が声をかけたとき、答えたのは蓮見本人ではなかった。
録音された蓮見の声だった。
「でも、どうやって……」
タイミングの問題がある。
榊原が「上がるときは気をつけてくださいね」と言った瞬間に、録音を再生しなければならない。
犯人は、そのタイミングをどうやって知った?
るるは浴室を出て、リビングを見回した。
高級マンションの一室。スマート家電が揃っている。
照明はスマートライト。エアコンもスマート対応。そして——
玄関のドアに、スマートロック。
るるは携帯を取り出し、早川に電話をかけた。
「夜分にすみません。一つ確認したいことがあります」
「何ですか」
「蓮見さんのマンションのスマート機器。警察で調べましたか」
「調べました。特に不審な点はなかったと聞いています」
「じゃあ、もう一つ。蓮見さんは、スマートスピーカーを使っていましたか」
沈黙があった。
「……少し待ってください」
電話の向こうで、キーボードを叩く音がした。
「——ありました。浴室に防水スピーカー。リビングにスマートスピーカー。どちらも同じアカウントで連携されています」
「そのアカウント、外部からアクセスされた形跡はありますか」
長い沈黙。
「……確認します。折り返します」
電話が切れた。
8
三十分後、早川から電話が来た。
「雛森さん。あなたの推測、当たってました」
「外部アクセスがあった?」
「ええ。蓮見のスマートホームアカウントに、三日前から不審なアクセスがありました。IPアドレスを追跡しましたが、海外のVPNを経由していて、発信元は特定できません」
「犯人は、蓮見さんの家のスマート機器を乗っ取っていた」
「そういうことになります」
るるは浴室に戻った。
スピーカーを見つめる。
「——これが、殺人の道具」
犯人は蓮見の家のスマート機器をハッキングした。
浴室のスピーカーも、リビングのスマートスピーカーも、犯人の支配下にあった。
そして、犯人は蓮見の声を録音した。
どうやって?
るるは考えた。
スマートスピーカーには、常に音声を聞いている機能がある。「OK、Google」や「アレクサ」というウェイクワードを待っている状態。
犯人がシステムを乗っ取れば、その音声データにアクセスできる。
蓮見が普段話している言葉を収集し、必要な音声を合成する。
「ありがとう」「わかった」
そんな短いフレーズなら、十分な音声サンプルがあれば合成できる。
——音声合成。
AI技術の発達で、数秒の音声サンプルから本人そっくりの声を生成できるようになっている。
犯人は、蓮見のスマートスピーカーから音声サンプルを収集し、蓮見の声を合成した。
そして、殺害後にその声を再生した。
榊原が「気をつけてくださいね」と声をかけたとき、犯人はリモートで合成音声を再生した。
榊原は、それを蓮見本人の声だと思った。
だから、浴室を確認せずに帰った。
「……でも、タイミングは?」
犯人は、榊原が声をかけるタイミングをどうやって知った?
るるは浴室を見回した。
そして、気づいた。
換気扇の隣に、小さなレンズがある。
「——カメラ」
浴室にカメラが仕掛けられていた。
犯人は、蓮見の浴室を監視していた。
蓮見が入浴する様子も、榊原が声をかけるタイミングも、すべて見ていた。
「だから、リアルタイムで対応できた……」
るるは身震いした。
犯人は、遠隔から蓮見を殺した。
物理的に現場にいなくても、殺人は可能だった。
蓮見を溺死させたのは——
るるは浴槽を見た。
浴槽の栓を、スマート化するデバイスがある。自動で栓を開閉できる。
そして、浴槽の追い焚き機能もスマート対応。
もし、入浴中に——
栓を開けて湯を抜きながら、追い焚きで熱湯を出したら?
いや、それだけでは殺せない。
るるは浴槽の形状をもう一度見た。
深い。そして、内側がなめらかで、手がかりがない。
もし、浴槽に座った状態で——
突然、照明が消えたら?
高齢で膝を悪くしている人間が、真っ暗な中、滑りやすい浴槽から出ようとしたら?
そして、その瞬間に浴槽のジェット機能が最大出力で動いたら?
「——水流」
るるは浴槽の側面を見た。
ジェットバス機能のノズルがある。
これもスマート対応だとしたら——
犯人は、遠隔で以下の操作を行った。
1. 照明を消し、浴室を真っ暗にする。
2. ジェット機能を最大出力で起動する。
3. 水流で体勢を崩した蓮見が、浴槽の中でもがく。
4. 膝を悪くしている蓮見は、立ち上がれない。
5. 浴槽から出られないまま、力尽きて溺れる。
そして——
6. 榊原が声をかけたタイミングで、合成音声を再生する。
7. 榊原は蓮見が生きていると思い、帰る。
「後頭部の殴打痕は……」
るるは考えた。
暗闘の中でもがいた蓮見が、浴槽の縁に頭をぶつけた。
それが「殴打痕」に見えた。
両手首の拘束痕は——
「ジェット水流」
強い水流に抗おうとして、手首を浴槽の縁に押し付けた。
その跡が「拘束痕」に見えた。
「——誰も浴室に入っていない。蓮見さんは、一人で溺死した」
るるは浴室の真ん中に立ち尽くした。
「でも、それは殺人。遠隔操作による殺人」
犯人は、蓮見の家に侵入していない。
防犯カメラに映るはずがない。
アリバイも何もない。犯行時刻に、犯人は日本にいなくてもいい。世界中のどこからでも、人を殺せる。
「——完全犯罪」
るるは身震いした。
「正義の処刑人」は、テクノロジーを使って遠隔殺人を行っていた。
物理的な証拠は残らない。
犯人の姿は映らない。
アリバイは意味をなさない。
これが、「処刑人」の手口だった。
9
翌朝、るるは早川に会った。
「——遠隔殺人、ですか」
早川は信じられないという顔をしていた。
「ええ。蓮見さんを殺したのは、スマートホームのハッキングです。犯人は物理的に現場にいなかった」
「でも、証拠は?」
「カメラです。浴室に隠しカメラがあるはず。それと、スマート機器のログ。犯行時刻に、ジェットバスと照明が遠隔で操作された記録が残っているはずです」
早川はしばらく黙っていた。
「……もし本当なら、今までの捜査は根本から見直しになる」
「他の四人も、同じ手口かもしれません」
「全員、スマートホームを使っていた?」
「わかりません。でも、調べる価値はあります」
早川は深くため息をついた。
「わかりました。上に報告します」
「一つだけ、お願いがあります」
「何ですか」
「この推理、まだ公表しないでください」
「なぜ?」
「犯人が気づくから。手口がバレたと知ったら、証拠を消される可能性があります」
早川は頷いた。
「わかりました。極秘で動きます」
「ありがとうございます」
るるは立ち上がり、カフェを出ようとした。
「雛森さん」
早川の声が追いかけてきた。
「何ですか」
「なぜ、そこまでするんですか。蓮見憲三は、本当に悪い人間だったかもしれないのに」
るるは振り返った。
「悪い人間かどうかは、わたしが決めることじゃありません」
「じゃあ、誰が決めるんですか」
「誰も決められないんです。だから、法がある。勝手に人を裁いていい権利は、誰にもない」
早川は何も言わなかった。
「それに——」
るるは微笑んだ。
「蓮見さんは、最後まで『ごめんなさい』を書き続けていた。その人が、本当に『殺されて当然』だったのか。わたしには、まだわからない」
るるはカフェを出た。
外は晴れていた。
冬の朝の日差しが、東京の街を照らしている。
「正義の処刑人」は、まだどこかにいる。
そして、次の「処刑」を計画しているかもしれない。
るるは事務所に向かいながら、考えた。
犯人は、テクノロジーに精通した人間。
法で裁かれなかった犯罪者に、強い怨みを持っている人間。
そして、「正義」を信じている人間。
——桐生あかりの言葉を思い出した。
「私は川島を殺したいと思った。何度も。でも、できなかった。そしたら、誰かが代わりにやってくれた」
被害者の遺族。法で裁かれなかった犯罪者を憎む人々。
その中の誰かが、「処刑人」になった。
でも、それは——
「正義じゃない」
るるは呟いた。
「ただの復讐だ」
復讐は何も生まない。憎しみを増やすだけだ。
それを止めるために、るるは動き続ける。
死者の弁護人として。
そして——「処刑人」を止める者として。
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