死者の弁護人

@Setsuna_Zero

第1話 殺されて当然の男

1


その男が殺されたとき、インターネットは歓喜に沸いた。


〈正義執行〉

〈ざまあみろ〉

〈もっと早くやってほしかった〉


蓮見憲三、58歳。元・大手商社の部長。


三年前、部下の女性社員に対する性的暴行で告発された。だが裁判では証拠不十分で無罪。被害者の女性はその後、自ら命を絶った。


遺族は民事でも敗訴。蓮見は早期退職こそしたが、退職金は満額。都内の高級マンションで悠々自適の生活を送っていた。


その蓮見が、自宅マンションの浴室で死体となって発見された。


死因は溺死。ただし、両手首に拘束痕。浴槽に頭を押さえつけられ、溺れさせられたと見られている。


犯人からの声明はない。だが、ネット上では「正義の処刑人」の仕業だと囁かれ始めていた。三ヶ月前から続く連続殺人。被害者は全員、「法で裁かれなかった犯罪者」ばかり。


そして今日も、SNSのトレンドには同じ言葉が並んでいた。


〈殺されて当然〉



2


高円寺の駅から歩いて七分。


古いアパートの二階、かつて誰かの住居だった部屋が、雛森るるの事務所だった。


玄関を開けると、六畳一間に小さなキッチン。壁には数式が書き殴られたホワイトボード。床には論文のコピーが散乱している。窓際には観葉植物が三鉢、どれも手入れが行き届いている。


その部屋の中央で、るるは床に座り込んでいた。


目の前に広げているのは、蓮見憲三の写真と資料。週刊誌の記事、裁判記録のコピー、SNSの投稿をプリントアウトしたもの。


「……」


るるは資料を見つめたまま動かない。


ふわふわの茶髪、大きな丸眼鏡、クリーム色のニットワンピース。どこからどう見ても、近所のカフェでラテアートを撮影していそうな女性だった。


しかし、その目だけが違う。


資料を見つめる瞳には、常人には理解できない密度の情報処理が走っている。


瞬きの回数が極端に減る。呼吸が浅くなる。IQ180の頭脳がフル稼働している証拠だった。


不意に、インターホンが鳴った。


るるの瞬きが再開する。意識が外界に戻ってくる。


「……はい」


立ち上がり、ドアを開ける。


そこに立っていたのは、五十代後半の女性だった。


白髪の混じった髪を後ろで束ね、地味な紺色のスーツを着ている。背筋は伸びているが、目の下には深い隈。眠れていない。おそらく数日間。


るるの目が、自動的にデータを収集し始める。


瞬目頻度、毎分11回。平均より少ない。緊張状態。

瞳孔径、やや拡大。交感神経優位。

呼吸数、毎分18回。やや速い。

姿勢、肩が内側に入っている。防衛的。

手、バッグの持ち手を握る力が強すぎる。指先が白い。


——この人は、何かを決意してここに来た。


「雛森るる先生……ですか」


「るるでいいです。先生はちょっと、むずがゆいので」


女性は一瞬、面食らったような顔をした。想像していた人物と違ったのだろう。るるはそれに慣れている。


「どうぞ、入ってください」



3


お茶を淹れながら、るるは女性を観察していた。


ソファに座った女性は、出されたほうじ茶に手をつけない。膝の上でバッグを抱えるように持っている。


「お名前、聞いてもいいですか」


「蓮見……蓮見真知子と申します」


るるの手が一瞬止まった。


蓮見。


あの男と同じ苗字。


「……蓮見憲三さんの、ご関係者ですか」


「妻です。戸籍上は、まだ」


るるは何も言わず、向かいの椅子に座った。


真知子の声は平坦だった。感情を押し殺しているのではない。感情が摩耗しきっているのだ。


瞳孔の収縮反応が鈍い。これは慢性的なストレス下にある人の特徴。

声の基本周波数が低く、抑揚が少ない。抑うつ傾向。

しかし、姿勢は崩れていない。意志の力で自分を保っている。


「あなたのことは、ネットで見ました」


真知子が言った。


「『死者の弁護人』。殺された人の名誉を守る人だと」


「……そう呼ばれることもあります」


「夫を……憲三を、弁護してください」


沈黙が落ちた。


るるは真知子の目を見つめた。真知子も、るるの目を見つめ返した。


「蓮見さん。一つ確認させてください」


「はい」


「ご主人は、三年前の事件で無罪になっています。でも、本当はどうだったと思いますか」


真知子の瞬目頻度が、一瞬跳ね上がった。


毎分11回から、24回へ。


呼吸が浅くなる。手がバッグを握る力が強くなる。


——この質問を予測していた。でも、答えを用意していなかった。


「……本当のことは、わかりません」


声の周波数が微かに上昇した。


嘘ではない。だが、全部を言っていない。


「わからない、というのは……」


「夫は私には優しい人でした。でも、外でどんな人だったかは……三年前まで、本当に知らなかったんです」


るるは頷いた。


「つまり、『やっていない』とは思っていない」


真知子の顔が歪んだ。


「……はい」


声が震えた。


「たぶん、本当にやったんだと思います。あの女性に、ひどいことをしたんだと思います。私は夫の弁護をしましたけど、心のどこかでは……」


涙が頬を伝った。真知子は拭おうとしなかった。


「それでも、殺されていいとは思わない。あんな殺され方をするほどのことじゃないと……私はそう思いたいんです。おかしいですか」


るるは首を横に振った。


「おかしくないです」


真知子の涙腺の活動が活発化している。でも、彼女は泣き崩れない。必死に自分を保っている。


「蓮見さん。一つだけ聞かせてください」


「はい」


「わたしがご主人を弁護した結果、世間はもっとあなたを叩くかもしれません。『殺人犯の妻が、夫を擁護している』って。それでもいいですか」


真知子は目を閉じた。


三秒間の沈黙。


瞬目停止。呼吸数低下。心拍推定値は上昇。


——覚悟を固めている。


目が開いた。


「構いません」


声に迷いがなかった。


「あの人が何をしたにせよ、あの人の人生がすべて間違いだったとは思いたくない。あの人にも、人間らしい部分があったって……誰かに証明してほしいんです」


るるはお茶を一口飲んだ。


ほうじ茶の香りが、部屋に広がった。


「——わかりました。依頼、受けます」



4


翌日、るるは蓮見憲三の自宅マンションを訪れた。


港区の高級タワーマンション。32階建ての最上階。


すでに警察の捜査は一段落しており、遺族——つまり真知子——の許可を得て、るるは中に入ることができた。


玄関を開けた瞬間、るるの脳が自動的に情報を収集し始める。


広さは約120平米。リビング、ダイニング、キッチン、寝室、書斎。

家具は高級品。イタリア製のソファ、デンマーク製の照明。

しかし、生活感が薄い。

写真がない。家族の写真も、友人との写真も。

本棚には経済誌とゴルフ雑誌のバックナンバー。


この人は孤独だった——とるるは思った。


金はあった。地位もあった。でも、誰ともつながっていなかった。


浴室に向かう。


事件現場だった場所。今は清掃されているが、るるの目には「残像」が見える。


湯船の位置、排水溝の位置、床のタイルの材質。


犯人が被害者の頭を押さえつけた角度。力の入れ方。所要時間。


「——身長175センチ前後、体重70キロ前後の人物」


るるは呟いた。


「右利き。被害者の背後から接近。最初に後頭部を何かで殴打、意識を朦朧とさせてから浴槽に押し込んだ。抵抗の痕跡が少ないことから、かなり手際がいい。初犯じゃない」


警察の見立てと、おそらく同じだろう。


でも、るるが知りたいのは「誰が」「どうやって」ではない。


「なぜ」だ。


なぜ蓮見憲三だったのか。なぜ今だったのか。


そして——蓮見憲三は、本当に「殺されて当然」の人間だったのか。


書斎に入る。


デスクの上はきれいに片付いている。パソコンは警察が押収済み。


本棚を見る。経済誌、ビジネス書。自己啓発本が数冊。


——ん?


るるの目が止まった。


本棚の隅に、一冊だけ異質な本がある。


『被害者学入門——犯罪被害者の心理と支援』


専門書だった。一般の人が読む本ではない。


るるは本を手に取った。


カバーの折り目、ページの開き癖。何度も読まれた形跡がある。特に第7章——「性暴力被害者の心理」のページが、よく開かれていた。


「……」


るるは本を元に戻した。


この本を読んでいたのは、蓮見憲三自身なのか。それとも——


「るるさん」


声がした。振り返ると、玄関に真知子が立っていた。


「お昼、持ってきました。よかったら……」


手には紙袋。コンビニのサンドイッチとお茶。


「ありがとうございます。でも、その前に一つ聞いていいですか」


「はい」


「この本、誰のものですか」


るるは『被害者学入門』を指さした。


真知子の瞬目頻度が上がった。


12回/分から、27回/分へ。


「……夫のものです」


声の周波数が0.8Hz上昇。


嘘ではない。だが——


「いつから、ここにありましたか」


「……事件の後です。裁判が終わった後から」


るるは頷いた。


「——ご主人は、読んでいたんですね。被害者の心理について」


真知子は答えなかった。


その沈黙が、答えだった。



5


その夜、るるは事務所で資料を広げていた。


蓮見憲三の経歴、裁判記録、SNSの投稿、週刊誌の記事。


そして、被害者——自殺した女性社員——についての情報。


名前は、高梨美咲。当時28歳。入社6年目の営業職。


るるは美咲の顔写真を見つめた。


笑顔の写真。社内報に載っていたもの。


——この人は、どんな人だったんだろう。


何が好きで、何を夢見て、どんな人生を送るはずだったのか。


そのすべてが、蓮見憲三によって壊された。


でも——


るるは『被害者学入門』のことを思い出した。


あの本を、蓮見憲三は繰り返し読んでいた。被害者の心理について学んでいた。


なぜ?


贖罪のため?それとも、別の理由?


インターホンが鳴った。


時計を見ると、午後10時。遅い時間だった。


「……はい」


「夜分にすみません。警視庁の者です」


モニターに映っていたのは、三十代半ばの女性だった。


ショートカットの黒髪、切れ長の目、紺色のスーツ。刑事だろう。


るるはドアを開けた。


「雛森るるさんですね。警視庁捜査一課の早川と申します」


「はい」


「蓮見憲三殺害事件について、いくつかお聞きしたいことがあります」


早川という刑事の目は、鋭かった。


瞬目頻度、毎分14回。平均的だが、安定している。

瞳孔径、正常。感情の揺れが少ない。

姿勢、重心がやや前。攻めの姿勢。


——この人は、何かを知っている。あるいは、知っていると思っている。


「どうぞ、入ってください」


早川は部屋に入り、壁のホワイトボードを一瞥した。数式が並んでいる。


「難しそうなことを研究されているんですね」


「趣味みたいなものです」


「趣味で微分方程式を解く人は珍しい」


早川は椅子に座った。るるも向かいに座る。


「単刀直入に聞きます。蓮見真知子さんから、依頼を受けましたか」


「はい」


「内容は?」


「夫——蓮見憲三さんの名誉を守ってほしい、と」


早川の眉が微かに動いた。


瞬目頻度が一瞬上昇し、すぐに戻った。


——驚いた。でも、予想していた範囲内。


「『死者の弁護人』でしたっけ。変わった仕事ですね」


「そうですか?」


「蓮見憲三は、性犯罪者ですよ。裁判では無罪になりましたが、限りなく黒に近い。その人の『名誉』って、何ですか」


るるは早川の目を見つめた。


「早川さん。質問していいですか」


「どうぞ」


「蓮見さんは、殺されて当然だったと思いますか」


早川の瞬目が一瞬止まった。


呼吸が0.3秒間、停止した。


声帯が微かに緊張した。


——この質問を、待っていた。


「私は刑事です。個人的な意見は控えます」


「でも、ありますよね。意見」


「……」


「呼吸が止まりました。0.3秒間。声帯筋にも微細な緊張が見られます。これは『言いたいことがあるが、言わないでおこう』という認知的抑制の典型的なパターンです」


早川の目が細くなった。


「なるほど。噂通りの人ですね」


「噂?」


「『人の心を読む女』。捜査一課でも話題になってます」


「読んでるわけじゃないです。ただ、見えるものを言語化しているだけで」


「同じことでしょう」


早川は立ち上がった。


「雛森さん。一つ忠告しておきます」


「はい」


「この事件には、深入りしないほうがいい。蓮見憲三だけじゃない。この三ヶ月で五人が殺されている。全員、法で裁けなかった犯罪者。世間は『正義の処刑人』を英雄扱いしている。そんな中で、被害者の『弁護』なんかしたら——」


「わたしも殺されるかもしれない、ということですか」


早川は答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


「お気遣い、ありがとうございます」


るるは微笑んだ。


「でも、わたしは依頼を受けました。蓮見憲三さんにも、殺されるべきではなかった理由があったかもしれない。それを探すのが、わたしの仕事です」


早川は深くため息をついた。


「……変わった人だ」


「よく言われます」


早川はドアに向かい、ノブに手をかけた。


「最後に一つ。これは警告ではなく、情報提供です」


「はい」


「蓮見憲三の自宅から、一通の手紙が見つかりました。宛名は——高梨美咲」


るるの瞬目が止まった。


「被害者の女性……」


「ええ。死んだ女性社員です。蓮見は、自殺した彼女に手紙を書いていた。投函されていない手紙が、机の引き出しから見つかりました」


「内容は?」


「言えません。ただ——」


早川は振り返った。


「あなたが探している『殺されるべきではなかった理由』。もしかしたら、その手紙の中にあるかもしれませんね」


ドアが閉まった。


るるは一人、部屋に残された。


窓の外では、東京の夜景が光っている。


——手紙。


蓮見憲三は、自分が傷つけた女性に手紙を書いていた。


何を書いたのか。謝罪か。弁明か。それとも——


「……複雑だな」


るるは呟いた。


人間は、単純な「善」と「悪」では割り切れない。加害者にも加害者の物語がある。被害者にも被害者の物語がある。


そのすべてを見なければ、真実には辿り着けない。


るるは壁のホワイトボードに向かい、マーカーを手に取った。


蓮見憲三の名前を中心に、関係者の名前を書き出していく。


妻・真知子。

被害者・高梨美咲。

「正義の処刑人」。

刑事・早川。


そして、まだ見えない何か。


「——始めよう」


るるは眼鏡を外し、目を閉じた。


IQ180の頭脳が、再び動き始める。


この事件の真相を、「殺されて当然の男」の真実を、暴くために。



6


翌朝、るるは早川に連絡を取った。


「手紙、見せてもらえませんか」


「無理です。証拠品ですから」


「内容だけでも」


長い沈黙があった。


そして早川は言った。


「——『ごめんなさい』」


「え?」


「手紙の内容です。便箋三枚に、同じ言葉が繰り返し書かれていた。『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい』。それだけです」


るるは何も言えなかった。


早川は続けた。


「筆跡鑑定の結果、蓮見憲三本人の筆跡で間違いありません。彼は死ぬ直前まで、被害者への手紙を書き続けていた。投函できないとわかっていながら」


「……」


「彼が何を考えていたのか、私にはわかりません。でも——」


早川の声が、少しだけ揺れた。


「少なくとも、あの男が『反省していなかった』とは言えない。それだけは確かです」


電話が切れた。


るるは窓の外を見つめた。


朝日が、東京の街を照らしている。


蓮見憲三は、殺されて当然の男だったのか。


まだ、わからない。


でも、一つだけわかったことがある。


彼は最後まで、「ごめんなさい」と書き続けていた。


届かないとわかっている手紙を、それでも書き続けていた。


その事実を、誰かが世界に伝えなければならない。


——それが、わたしの仕事だ。


るるはコートを羽織り、事務所を出た。


死者の弁護人としての、最初の一歩を踏み出すために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る