第28話

何事もなかった一日


客が帰り、

卓が空く。


一瞬の静けさ。

その沈黙が、

一番怖い。


何か言わなきゃ。

何も言わなくていい。


どちらを選んでも、

間違っている気がする。


だから私は、

牌を拭く。


意味はない。

ただ、手を動かす。


オーナーは、

遠くで誰かに

指示を出している。


その声は、正しい。

正しすぎて、

逃げ場がない。


ある瞬間、

急に息が詰まる。


吸えない。

吐けない。


誰にも気づかれないように、

俯く。


これ以上、

迷惑をかけたくない。


迷惑をかける人間になったら、

ここにいる理由が

なくなる。


社員Hが、気づく。


「代わるよ」


それだけ。

理由も、説明もない。


私はうなずいて、

裏に下がる。


壁にもたれる。

呼吸を整える。


誰も責めていない。

誰も悪くない。


それが、

いちばん苦しい。


この場所では、

人は壊れない。


壊れたら、

問題になるから。


人は、

壊れない程度に削られる。


笑顔を減らし、

言葉を減らし、

「大丈夫です」を覚えていく。


私は今日も、

何事もなかったように帰る。


何事もなかった一日が、

また増える。


夜、家に着いて、

ようやく息が深くなる。


体が重い。

心は、もっと重い。


明日も、たぶん行く。

行けなくなる日が来るのが、

少し怖い。


でも、今はまだ行ける。

まだ、生きている。


それだけで、

この物語は続いていく。

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