それでも、人生に祝杯を掲げて
春生直
それでも、人生に祝杯を掲げて
頑張って生きていれば、いつかは幸せになれるのだと思っていた。
そんなことは無い、と知ったのは、この年始のことだ。
「お父さん、あなたが産まれたときから、ずっと不倫をしていたの」
母親のその言葉は、刃のように冷ややかに、私の心に突き刺さった。
「……そう」
どのような顔で返事をしたのか、もう覚えていない。
深夜、実家のリビングで呼び止められたかと思えば、そんな話が始まった。
帰省なんてしなければ良かった、という後悔が頭をよぎった。
父親の不貞には、うすうす勘付いていた。
だが、その事実を、子供にわざわざ聞かせる必要があっただろうか。
「お父さんは、あなたのことを愛していなかった。生まれつき性格が悪いって、何度も言っていたの!」
ヒステリックに、母親は同じようなことを繰り返す。
父親に、愛されていなかった。
残念ながら、それも知っている。
そんなことを言えば、母親の味方をするとでも思ったのだろうか?
生憎、そんな可愛気のある人間ではない。
「私だって、不倫した相手の子供なんて、もうかわいいとは思えない!」
駄目押しとばかりに、彼女は叫ぶ。
「……もう、良い? 私は寝るから」
リビングの扉を閉める。
泣きたくないのに涙が出てきて、暗い廊下で、音を出さないように嗚咽した。
傷ついた顔をすれば、この人たちの思う壺だ。
そんなことは、分かっていた。
ああ、大人になっても嗚咽を噛み締めることしかできないのなら、私の人生には、どれほどの価値があったのだろうか。
母親に殴られ始めたのは、二歳の頃だった。
いわゆる、度が過ぎた教育ママというやつで、毎日ピアノを練習しては、音を外したと言って殴られた。
テレビも漫画も携帯も、娯楽と名の付くものは全て禁止。
小学生の時から深夜一時まで勉強して、全国模試では一位争いをして。
家庭に無関心な父親。
暴力を振るう母親。
自由も楽しみも何もなかったけれど、それでも良かった。
母親が笑ってくれるなら、それで良かった。
大学は文系学部に行きたかったけれど、行かなかった。
医者になりたかった、という母親の夢を叶えた。
それで不仲な両親が仲良くなってくれるなら、安いものだった。
誰かに少し嫌な顔をされるだけで、殴られ続けた過去がフラッシュバックするけれど、それでも私は、何とか息をしていた。
だけど、そんな努力には、最初から何の意味もなかった。
どう頑張ったって、両親は私のことなんて見ていなくて、家庭は壊れていた。
私も、自暴自棄になってしまおうか。
生きることなんて、もう辞めてしまおうか。
部屋の布団の上にうずくまり、暗闇の中で、そのような事をぐるぐると考える。
どれくらい、そうしていただろうか。
ふと、携帯の通知音が鳴り、画面が光った。
『あけましておめでとう!』
友人からの、何てことない新年の挨拶。
けれど、彼女は私にとって、特別な存在だ。
彼女の顔と共に、去年言われた言葉を思い出す。
『死にたくなったら、その前に電話をかけて』
彼女との間には、沢山の思い出がある。
高校の席が隣だった。
一緒に遊んで、勉強して、悲しいことがあれば、泣きながら通話をした。
そんな些細なことが、今の私を守ってくれる。
私は、両親に愛されていない。
けれど、一人ぼっちではない。
あけましておめでとう、と返信して、次は夫に電話をする。
数コールで出た彼の声は、いつも通りに優しい。
事の次第を説明すると、彼は、間髪入れずにこう言った。
『それでも、僕は君を愛しているよ』
結婚する前、私の実家はおかしいから結婚すべきではない、と伝えたことがある。
やはり彼は迷わず、それは君の問題ではない、と答えた。
私は、両親に愛されていない。
頑張って頑張って、どうすることもできなかった。
だけど、誰かと生きることを互いに望み、肩を寄せ合うことができる。
それだけは、疑う余地すらなく、確かなことだ。
Mrs. GREEN APPLEの『ライラック』という歌に、このような歌詞がある。
『痛みだす人生単位の傷も愛おしく思いたい』
人生単位の傷には、まだ押し潰されたままだ。
全てを解決する魔法の杖なんて無いし、生きることを諸手を上げて肯定することなんて、できそうにない。
けれど、どんな傷もいつかは乾く。
痛みも不格好さも無くならないかもしれないけれど、生きていれば、必ず乾く。
拙い医者として、それを知っている。
有り体でない優しさがあるとしたら、それは、その人の
私は、今年もまだ、しぶとく生きている。
誰に愛されなくたって、まずは、それを祝いたい。
おめでとう。
これは、私の人生だ。
どのように生きたって、構わない。
おめでとう。
私と共に生きてくれる、全ての人に祝杯を挙げよう。
人生単位の傷痕を、いつか笑って誰かに差し出すために。
今日という日を、祝っていこう。
それでも、人生に祝杯を掲げて 春生直 @ikinaosu
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