もふもふ精霊と営む、森の薬草カフェ

みみ

第1話 二度寝後の最高の目覚め

耳元で、風が鳴らす鈴のような音がした。


「……ん……あと、五分……」


 ミチル――志村美知留は、重い瞼をこじ開けることなく、手探りでスマホのアラームを探した。しかし、指先に触れたのは冷たい機械の感触ではなく、驚くほど柔らかくて、温かい「なにか」だった。


「きゅ?……きゅぅん」


 微かな鳴き声。と同時に、鼻先をくすぐる、瑞々しいミントと濡れた土の混じったような、爽やかな香りが優しく脳に染み渡る。美知留はゆっくりと目を開けた。


 視界に飛び込んできたのは、無機質なワンルームマンションの天井ではない。  太い木の梁が通った、高い天井。石造りの壁。そして、開け放たれた窓から差し込む、宝石を溶かしたような鮮やかな木漏れ日だった。


「ここ……どこ?」


 上体を起こすと、お腹の上で丸まっていた「白い綿毛」が、ぽてんとベッドに転がった。それは、ピンと立った耳と、ふさふさの尻尾を持つ、手のひらサイズの小さな子狐だった。ただの子狐ではない。その体からは、目に見えるほど淡く光る粒子が、風に乗ってキラキラと溢れている。


「きゅんっ!」


 子狐は嬉しそうに跳ねると、美知留の頬にその小さな鼻を寄せた。


(ああ、そうか……)


 不思議と恐怖はなかった。最後に見たのは、深夜のオフィス。モニターの光。積まれた書類。止まらない動悸。あんなに執拗に追いかけてきた「明日までにやらなきゃいけないこと」のすべてが、今はひどく遠い世界の出来事のように思えた。


 窓の外から、ざわざわと葉の擦れ合う音が聞こえてくる。いや、それは音というよりも、もっと直接的な「声」に近いものだった。


『おはよう、新しいお隣さん』 『陽当たり、最高だよ』 『お腹が空いたなら、こっちにおいで。赤い実が熟したよ』


「……私が、植物と喋ってる?」


 美知留は、自分の手を見た。キーボードを叩くだけのささくれた指ではなく、白く、柔らかな、それでいて確かな生命力に満ちた手。


 彼女はゆっくりとベッドから足を下ろした。ひんやりとした木の床が心地よい。  もう、上司や催促の電話に怯える必要はないのだ。


「とりあえず……朝ごはんを食べようかな。ルル、って呼んでもいい?」


 白狐の精霊――ルルが、誇らしげに胸を張って鳴いた。美知留の、頑張らない異世界生活が、今始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る