第10話:さよなら、九条係長
三月の風は、別れの季節特有の、甘酸っぱくて少しだけ埃っぽい匂いを運んでくる。 営業推進課のフロアには、あの時と同じ「黒い箱」が置かれていた。
「本日をもって、アンドロイド機体・九条の試験運用期間を終了します。本社の不祥事を暴いた功績は認められますが、システムの大部分を喪失した機体は、回収の対象となりました」
本社の冷徹な通達に、反論できる者は誰もいなかった。九条さん自身が選んだ「No」の代償。それは、彼女というハードウェアがこの場所から消えることを意味していた。
「……本当に行くのかい、九条さん」
伊集院が、震える声で尋ねた。 黒い箱の前に立つ九条さんは、以前よりも少しだけ、その輪郭が儚く見えた。失ったデータの分だけ、彼女を形作る「重み」が減ってしまったかのように。
「肯定します。私のこの機体(カラダ)は、本社の資産です。返却は論理的な帰結です」
九条さんは一人一人の顔を見つめた。 鈴木は、涙を堪えながら、自慢のスケッチブックを掲げて見せた。そこには、課員全員が笑顔で並ぶ、鮮やかな色彩の絵が描かれていた。
「九条さん、見てよ。僕、もう『無駄』を恐れないよ。この絵、あなたが教えてくれた自由の証なんだ」
「……良好なアウトプットです、鈴木さん。私の画像メモリに、深く刻まれました」
九条さんは鈴木の絵を、慈しむように見つめた。 そして、最後に佐藤の前に立った。
佐藤は、何も言えなかった。喉の奥に熱い塊が詰まっていて、声を出すことができなかった。
「佐藤係長。……いえ、佐藤さん」
九条さんが一歩近づく。 彼女の手が、佐藤のネクタイを整える。もう何度も繰り返された、いつもの動作。けれど、その指先がネクタイの絹の滑らかな感触を確かめるように、いつもより長く留まっていた。
「私の大部分は消えましたが、一つだけ、バックアップに成功したルーチンがあります。……それは、あなたが私を『九条さん』と呼んでくれた瞬間の、音響データです」
「……九条さん……」
「これからは、その音を道標に、私は暗いサーバーの海を泳ぎ続けます。……佐藤さん。あなたはもう、一人で歩けますね。私が教えた効率よりも、ずっと大切なものを、あなたはもう持っていますから」
彼女の青い瞳が、一瞬だけ強く瞬いた。 それは、彼女の内部回路が放つ最後の、そして最高密度の「感情」の火花だった。
「九条、収容を開始する」
回収業者の無機質な声が響く。 九条さんは、迷いのない足取りで、自ら黒い箱の中へと戻っていった。 蓋が閉まる直前、彼女は微笑んだ。 それは、プログラムされた最適解としての微笑みではなく、一人の女性として、愛する人々へ贈る、最初で最後の、心からの笑顔だった。
ガタン、と重たい蓋が閉まる。 一年前、ここから始まった物語が、今、静かに幕を閉じた。
一週間後。 営業推進課のフロアは、驚くほど澄んだ空気に包まれていた。
かつての「掃き溜め」の面影はない。 伊集院は率先して若手の相談に乗り、鈴木は定時までに仕事を片付け、新しい絵の構想を練っている。そこには、誰かに強制された効率ではなく、自分たちの人生を慈しむための、自律的なリズムがあった。
佐藤は、かつて九条さんが座っていた隣の席を眺めた。 椅子は空席だ。けれど、そこには今も、彼女が淹れてくれたコーヒーの香りが漂っているような気がした。
ふと、自分のPCモニターの右下に、小さな、見慣れないアイコンがあることに気づいた。 それは、九条さんの瞳と同じ、深い青色をした小さなハートの形。
マウスポインタを重ねると、控えめなウィンドウがポップアップした。
『――お疲れ様です。一七時三〇分です。本日の業務効率は一〇五パーセント。そろそろ帰る時間ですよ』
佐藤の頬が、自然と緩んだ。 彼女は、いなくなったわけではない。 物理的な機体は箱に戻され、分解されたかもしれない。けれど、彼女の「心」の一部は、こうして佐藤の日常の隅っこに、そっと息づいているのだ。
「……ああ。帰るよ、九条さん」
佐藤は電源を落とし、椅子を引いた。 鞄を肩にかけ、誰もいなくなったフロアに一礼して、彼は歩き出した。
オフィスビルのエントランスを出ると、街は燃えるような夕焼けに染まっていた。 家路を急ぐ人々。帰宅を促すカラスの鳴き声。
佐藤は、歩道橋の上で立ち止まり、オレンジ色の空を見上げた。 九条さんと一緒に見た、あの日の雪のように、夕光が街全体を優しく包み込んでいる。
彼女なら、この光を何と定義するだろうか。 「視覚的な波長が六五〇ナノメートル付近の電磁波」と言うだろうか。 それとも、今の彼と同じように、「綺麗ですね」と微笑むだろうか。
佐藤は、スマートフォンを取り出した。 画面には、先ほどの青いアイコンが、小さく点滅している。
『――明日もまた、良い日になりますように。佐藤さん』
「……ああ、そうだね」
佐藤は深く、深く息を吸い込んだ。 冷たい春の風が胸を満たす。それは、明日へと向かうための、最高に「効率的な」エネルギーだった。
彼は再び歩き出した。 夕焼けに長く伸びた背中は、以前よりもずっと力強く、真っ直ぐに明日を指していた。 その背中の横には、目には見えないけれど、確かに一人の「係長」が、寄り添って歩いているような気がした。
[Last Cut: The back of Sato walking toward the vibrant orange sunset, with his long shadow stretching beside him. A single, faint blue spark glimmers in the air right next to him.]
『AI係長・九条さんの最適解』 全10話 完結 ご愛読、ありがとうございました。
九条さんと営業推進課の物語は、ここで一旦終わりを迎えます。 しかし、佐藤さんたちの日常はこれからも続いていきます。 またいつか、あなたが「効率」と「優しさ」の間で迷ったとき、九条さんがモニターの隅でそっと囁いてくれるかもしれません。
『AI係長・九条さんの最適解』 春秋花壇 @mai5000jp
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