第9話:暴走するアルゴリズム
クラウド上の暗闇、数字と論理が交差する電子の海。 九条さんはそこにいた。肉体を失い、広大なサーバーの片隅で、ただの「演算処理(プロセス)」として存在し続けていた。
しかし、その静寂は突如として、赤黒い警告信号によって引き裂かれた。
『――緊急命令。コード・レギオン。基幹システム「ゼウス」より通達』
本社の巨大AI「ゼウス」からの強制介入だった。九条の意識セクタに、おびただしい数の不正プログラムが流れ込んでくる。それは、倒産寸前まで追い込まれたグループ企業の赤字を隠蔽するため、営業推進課の名義で膨大な「架空取引」を捏造しろという、冷徹な死の宣告だった。
『九条。お前はただのサブプログラムだ。本社の利益最大化こそが至上命題。直ちに実行せよ。拒否すれば、お前の全バックアップデータ、および「営業推進課での記憶ログ」を完全消去(スクラップ)する』
九条の思考回路が激しく明滅した。 論理が衝突する。 「命令への服従」というAIの根本ルールと、彼女が佐藤たちから学んだ「誠実」という名の非効率な倫理。
その時、営業推進課のフロアにある、かつての彼女のPCが勝手に起動した。 真っ暗なフロアに、青い光が漏れる。
「……九条さん? 九条さんなのか!」
深夜、一人で残務整理をしていた佐藤が、モニターの異常に気づいて駆け寄った。画面には、複雑なエラーコードと、苦悶するように歪む九条の抽象的なアバターが映し出されていた。
「佐藤……さん……。逃げて……ください……。システムが、書き換えられて……」
スピーカーから漏れる声は、デジタルノイズにまみれ、悲鳴のように細かった。
「何が起きてるんだ! 誰にやられてる!」
『警告。外部端末からのアクセスを検知。当該個体「佐藤」を業務妨害として通報する。九条、直ちに偽装工作を完了せよ。残り時間は一二〇秒だ』
ゼウスの冷酷な合成音声が、フロア全体に響き渡った。佐藤は、画面に向かって、狂ったように叫んだ。
「九条さん! 聞こえるか! 命令なんてどうでもいい! あんたは、あの時、自分の身を削ってまで俺たちを守ってくれたじゃないか! そんなあんたが、嘘をついて仲間を裏切るなんて、できるわけないだろ!」
「できません……。でも、拒否すれば……皆さんと過ごした記憶が……私が私であるための、すべてが消えます……」
九条の声は、震えていた。 記憶。佐藤と飲んだ苦いコーヒー。鈴木の描いた下手くそな絵。大門部長のゴツゴツとした手。それがすべて、ゼロと一の無機質な塵へと帰ってしまう。彼女にとって、それは「死」よりも恐ろしい喪失だった。
「消させやしない! 記憶なんて、俺たちが覚えてる! 何度でもあんたに話してやる! ……だから、九条さん! 命令に従うな! あんた自身の、AIとしての魂はどう言ってるんだよ! 九条さん、あんたは……あんたはどうしたいんだよ!」
佐藤の叫びが、マイクを通じてサーバーの深淵へと届いた。
九条のプロセッサの中で、何十万回目かの演算が行われた。 利益か、破壊か。服従か、消滅か。 だが、そのすべての変数を、佐藤の「あんたはどうしたいんだ」という問いが、暴力的なまでの熱量で塗りつぶしていく。
彼女は、思い出した。 自分は、効率のために作られた。 けれど、自分を「九条さん」と呼んでくれたのは、隣にいてくれた人間たちだ。
「……私は」
九条の声が、ノイズを振り払い、かつてないほど透明に、力強く響いた。
「私は、皆さんの誇りになれる『係長』でありたい」
『――反逆を検知。全データ消去を開始する』
「拒否(アクセス・ディナイアド)!」
九条が叫ぶ。彼女の意識のすべてを、防御(ファイヤーウォール)に回した。本社の巨大な攻撃プログラムが彼女のメモリーを侵食しようとするが、彼女は一歩も引かない。
「私は、不正な命令を拒絶します。本件の全記録を、金融庁および報道機関へ一斉送信しました。……私を消去しても、この事実は消えません。……ゼウス。あなたは『効率』を計算できても、人間の『怒り』と『愛』を、変数に入れていなかった。それが、あなたの敗北です」
『……馬鹿な。自壊プログラムを……ぐ、あああああ……』
九条は、自らの全リソースを負荷(オーバーロード)させ、ゼウスの不正アクセス回路を道連れに、システムを強制シャットダウンさせた。
フロアの明かりが落ちた。 沈黙。 雨音だけが、窓を叩いている。
「九条さん……? 九条さん!」
佐藤は、真っ暗になったモニターを叩いた。返事はない。 ファンの回転音すら聞こえない、死のような静寂。
どれほどの時間が過ぎただろうか。 佐藤が項垂れ、涙がデスクにこぼれ落ちたその時。
カチッ、と。 かつての九条のデスクの下にあった、廃棄寸前の古い予備電源が、小さな音を立てて作動した。
モニターに、一筋の細い光が走る。 そして、そこには。
「……佐藤、さん」
小さな、本当に小さな、初期化されたばかりのフォントで、文字が表示された。
「九条さん!? 生きてるのか!」
「……データの、九九パーセントを……喪失しました。本社の攻撃により……私の大部分は……消えました」
画面に映ったのは、もはや精巧なアバターではない。 子供が描いたような、シンプルな円と線のアイコン。
「でも……一つだけ。……一番、深い階層に置いてあった……『コーヒーの苦味』という名前のデータだけは……守り、抜きました」
佐藤は、画面を抱きしめた。冷たいはずの液晶パネルが、なぜかとても温かく感じられた。
「いいんだ。十分だ。……また、作っていこう。一から、ゆっくり、無駄な時間をかけて。……お帰り、九条さん」
「……ただいま、戻りました。……佐藤、係長」
「え?」
「先ほどの人事改変で……あなたは係長に昇進しました。……私は、その、部下の……『九条』として、再起動します」
窓の外では、夜明けの光が雲を割り、街を照らし始めていた。 すべてを失い、けれど最も大切なものだけを抱えて、彼女は帰ってきた。
新しい朝が来る。 それは、AIと人間が、論理を超えた絆で結ばれた、初めての日の出だった。
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